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薬師寺金堂と花会式時の舞台 |
1.送られてきた薬師寺花会式の招待券
初めて薬師寺の花会式に行ったのは、奈良県榛原に住む小学校の同級生から花会式の招待券が送られてきたからである。
その友人は、日本椿協会奈良支部に所属し、薬師寺の花会式の時に玄奘三蔵院伽藍の回廊で椿展に作品出品していた。
その関係で薬師寺から券を入手出来た。それは白鳳伽藍の各所に入れる参拝券のつづりであった。
その中には、野点席券と今はないが昼食券まで付いていた。
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参拝券のつづり |
それで、早速、同級生4人が示し合わせて、薬師寺に赴き友人に会い、花会式に参加したのは、2012年のことである。
以下、私のブログに掲載した記事(一部追加、削除)で薬師寺を知って頂きましょう。
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薬師寺メモ・薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山です。現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。
天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。(718)
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2.「薬師寺・花会式の献花と椿展」 2015/3/27(金) 午後 8:09
薬師寺は、今、花会式の最中である。
金堂の薬師三尊に色とりどりの10種の造花が、奈良の2軒の旧家で作られ献花される。
霊験を得て病気が回復した堀河天皇の皇后が献花をされて以来、長く続く春を迎える季節の行事である。
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薬師三尊と献花 |
この薬師寺に、その歴史に初めての玄奘三蔵院伽藍が玄奘三蔵のご遺徳を顕彰する為平成3年に建立されました。
平成12年12月31日に玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」に作者の平山郁夫画伯が入魂され、その歴史が始まりました。
ここには,玄奘三蔵法師が経典を求めて辿った17年間にわたる西安からインドのナーランダまでの風景が描かれています。この壁画が、私を薬師寺に足を運ばせる原動力になっています。
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玄奘三蔵院伽藍 |
この伽藍の回廊で、友人のグループで作る椿の盆栽が、花会式の時期に合わせて展示される。何時からかは聞いていないが、この時期にピッタリで華やかである。
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説明椿の盆栽展 |
この展示、20年も続けば、その先200年と永続的な行事になって行くのではとふと思った。そのことを友人に伝えた.。
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薬師寺メモ・薬師寺(奈良市)の金堂で営まれる修二会(しゅにえ)「花会式(はなえしき)」(25~31日)
堀河天皇の皇后の病気全快を祝って十種類の造花を薬師如来の前に供えて荘厳な供養を行ったのがはじまり。 31日の夜には「鬼追い式」が行われます。
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2.「玄奘三蔵院伽藍と今年の花会式のお弁当は 」2014/3/27(木) 午後 8:41
私は、京都発の近鉄電車で西大寺で乗り換え薬師寺のある西の京駅へ向かう、そこで落ち合う友人は反対の伊勢方向から西の京駅へと向かい、少しの時間差で着いた。(京都からは、特急も急行も停まります。)
また、薬師寺で盆栽展をしているもう一人の榛原に住む友人に電話すると、薬師寺に向かう車の中だった。
彼が着くまで、玄奘三蔵院伽藍の大唐西域壁画殿へ入り、故平山郁夫画伯の玄奘三蔵の求法の旅を描いた壁画を見始めた。
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大唐西域壁画 |
すると、薬師寺の法被を着た係の人が、入って最初の西安の夜明けの絵から最後のナーランダの日没の絵までの玄奘歩いたシルクロードの壁画の説明をして下さった。
玄奘三蔵の旅の風景、その中心には、薬師三尊に見たてられたヒマラヤの山々(須弥山)が、描かれている。
画伯が、30年の歳月をかけ現地に赴き描かれた多くのスケッチを元に制作された大作である。
平成12年のこの大壁画の奉納より前、平山画伯に制作を依頼された高田好胤導師は、平成10年この壁画を見ずして亡くなられた。最後の絵の中に師のお姿がそこはかとなくと描かれている。
この壁画参拝後、伽藍の回廊で友人と会い、回廊に沿って並べられた立派な椿盆栽の数々を案内してもらい、彼の作品を前にして写真を撮って歓談した。
丁度昼食時間になり、友人に食事に行くよう勧められ、金堂脇に建てられた仮説の大きなテントに前に行くと既に大勢の人が並んでいた。
入口で、善男、善女が小さなお弁当を受け取る。一昨年より小さなお弁当、中を開けるとご飯の真ん中に梅干し一つの梅干し弁当だった。
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お弁当 |
そこで、お坊さんのこの弁当についての説明が始まる。管長のお考えで、震災の被害を受けた東北の復興が未だの折、そのことを考え原点に戻ってとこのお弁当になったとのことである。
戦後の日本は、梅干し弁当から復興へと向かい成長を迎えた。この弁当が原点と言えよう。そう納得した。
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3.「薬師寺の凄さ 」2016/3/29(火) 午後 8:44
薬師寺には他にない類を見ない中国南京から日本軍が持ち帰った玄奘三蔵法師の頂骨の一部を納めた玄奘塔を囲んだ玄奘三蔵院伽藍がある。
伽藍正面の上には
「不東」の額がある。
八角形の玄奘塔には、大川逞一仏師の手によって作成された左手に経典を手にしの翻訳作業中の玄奘三蔵像が祀られている。
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玄奘塔写真 |
また、玄奘塔の後ろには、前述の大唐西域壁画殿がある。
薬師寺は、「法相宗」の大本山で、その教祖としての玄奘三蔵院伽藍の設立である。他のお寺にない独自のものと思う。
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4.「薬師寺再建と写経」2017年2月16日・・・これが1番の凄さかもしれない
雨漏り、苔が生え老朽化した薬師寺の金堂の再建に、当時の高田好胤管長は、「これまで600万人の学生が修学旅行で薬師寺を訪れている。この人達に写経をお願いし寄付を募ろう。」と言うことを思いつかれた。
10億円の資金調達には、納付一枚1000円の写経を100万巻が必要だった。
高田好胤管長には、何が何でも金堂復興を成し遂げるという強い信念があり、身を削って、修学旅行で訪れた全国学校などを全国くまなくお写経勧進行脚された。
その姿を見て、全山僧侶が心を一つに邁進されたそうです。
行脚でどの様に話をされたか、昨日のNHK探検バクモンの修理中の東塔探検の番組の中で放映された。それを写真に撮ったので掲載します。
写経依頼で全国を回られた疲れからか、玄奘三蔵院伽藍を建立完成を待たずに亡くなられた。
今年(平成29年)食堂の完成で、ほぼ全ての伽藍が、写経で再建された。凄いことである。
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お写経道場と薄墨桜 |
玄奘三蔵院伽藍の前にはお写経道場があり、花会式の期間中、午前8時30分から午後7時まで写経が行われる。写経には、般若心経、薬師経、唯識三十頌、国宝東塔大修理特別がある。
写真は、写経道場前に植えられた薄墨桜で、今年は暖かいこともあり花がよく咲いている。
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5.「槍鉋(やりがんな)での柱の仕上げ表面 」2015/3/31(火) 午後 5:48
薬師寺の花会式では、招待券には、白鳳伽藍参拝券の他にお食事券と野点券が付いている。
野点は金堂の周りの回廊で、順番を待って頂く。
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お茶を点てておられるところ |
下に掲載の回廊の写真の柱、良く見ると削り跡が見える。
これが、古代の大工道具である槍鉋(やりがんな)での柱の仕上げ表面である。木の表面が鏡のようにすべすべになるそうです。こうした面が、長い間、風雪に耐えるということです。
削り面が波面の連続面である。
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回廊の柱の削り面 |
回廊の柱を一本一本と見て行くと皆この様な加工表面になっている。
薬師寺伽藍を建てた宮大工、西岡常一氏が、15~16世紀に使用が途絶え、実物もなければ使用方法も分からない幻の道具を、槍鉋を使って木材を加工する昔屏風絵を見て、また、正倉院保管の槍鉋と同じ形の小刀を参考にして、自ら使ってみて柄を長く改良した槍鉋を復元した。大工に使い方を教え、槍鉋を使って加工した木材で薬師寺伽藍を建てた。
今日は、その証を見てきた。
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6.宮大工西岡常一棟梁と高田好胤管長
薬師寺の再建を担ったのは宮大工西岡常一棟梁で、依頼したのは高田好胤管長である。
西岡常一氏には、「木に学べ」と言う有名な著書があるが、それを子供向けに書いた本「薬師寺に陽がのぼる」の中に下記の掲載がある。(写真下、右上の本)
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参考文献 |
「薬師寺金堂の再建」
命がけの高田館長
「西岡さん、ご相談したいことがありますんで、寺へおいで下さい。」
1970(昭和四十五)年五月のことでした。
薬師寺から、つかいの人が、常一の家に来たのです。
「どんな用やろう?」
・・・これが、金堂再建の始まりです。
金堂再建後に、今度は、西岡常一棟梁が高田好胤管長に西塔の再建を持ち掛けます。
「・・・世界平和をいのる仏教のためにも、ぜひ、西塔を建てさせてください。」こういう意味の手紙を書いて高田管長にさしだしました。
高田管長は、おどろいて手紙を読みなおしました。「西岡さん、私をひどい目にあわすんやな。・・・・」管長には、過酷な行脚が待っているのです。
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正面に見えるのが西塔 |
この対話が、順次建立されてゆく薬師寺の白鳳伽藍全体の再建への始まりでした。
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白鳳伽藍 |
また、日本には、大きな檜がなく台湾へ行き、探し出し日本へ運び建立に使われた。
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台湾製千年檜 |
金堂は、薬師三尊は、火災から守るために、建物内の鉄筋コンクリー構造内に置かれている。
内部以外の構造体は、木造建築である。
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金堂の構造を示す断面図 |
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薬師寺メモ・西岡常一氏:1908年、奈良県生まれ。祖父を師に大工見習い、棟梁としての心得、口伝を伝授され、法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺金堂や西塔などの復元を果たした最後の宮大工棟梁。文化財保存技術者、文化功労者。95年4月、死去。享年八十六 …
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7.「寺院建築用槍鉋(やりがんな)に出会う」 2015/5/14(木) 午後 8:22
越前市(旧名武生市)での小学校の同窓会の翌日、昼前にタケフナイフビレッジを見学した。
越前市の打刃物の協同組合が運営する工場だ。各業者から匠が集まって、打刃物を製造しているいる所だ。
その工場の展示場の中に、槍鉋(やりがんな)があった。
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槍鉋(ヤリガンナ)と削っている写真 |
薬師寺を再建した宮大工西岡常一が復元し使用した同じ形、サイズのものだ。
ただ、以前は、年に2、3本注文があったそうだが、今は、使い手なく注文も減っているという。
工場は、作業場の上部に設けた通路から見下ろしてみる。
材料を炉で真っ赤にして、ハンマープレスで置き換えながら形を叩き出す。熟練工の手作業で作られてゆく。
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8.「薬師寺・花会式・稚児行列」2015/3/28(土) 午後 8:40
今日は、旅行仲間12人を案内して、薬師寺の花会式に行って来た。
玄奘三蔵院伽藍で平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を見てから、食堂へ行く。
昨年は東北大震災の人々のことを思い日の丸弁当だったが、今年は元に戻ってちらし寿司だった。
金堂で、花会式の10種の造花が献花された薬師三尊をお参りした。
回廊では、食後に野点席で落雁とお抹茶を頂いた。
午後1時より、金堂前で雅楽隊の先導で、修行僧の入場に続いて稚児行列があった。
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稚児行列が壇上に到着したところ |
見ている花会式参加者は、拍手で稚児を迎える。。
暖かな快晴の中での穏やかの幸せの一時だった。
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9.「薬師寺・花会式・献能」 2016/3/28(月) 午後 6:09
写真は、今日行ってきた薬師寺の金堂前の舞台で、午後2時から大蔵流狂言・鬼瓦と観世流半能・頼政が奉納された。
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金堂前の舞台で半能 |
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狂言の舞台 |
狂言などの奉納が行われる前、午前中に金堂内の薬師三尊をお参りした。
10種類の造花が供えられている。
薬師寺白鳳伽藍の回廊では、野点が行われ、参拝の人達にお抹茶とお菓子が振舞わられる。
今回初めて、西塔の内部の釈迦四相像を見る事が出来、良い一日だった。
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10.「薬師寺・火渡り式」2017/3/25(土) 午後 4:14
来週と思っていたが、急に思いついて薬師寺に行くことになった。
10時半ごろから用意して、11時15分に石山駅に着いた。12時発の近鉄電車で、京都から近鉄で西ノ京に行く。直通で11時49分に着いた。
何はともあれ、薬師寺の中に入り、休息所で昼食を食べた。
まずは金堂にお参りし、仏様のお顔を良く見させて頂き、献上された色々な種類の素晴らしい造花を鑑賞した。
いつもは後半に行くので、拝顔も混雑し歩きながらの拝顔だった。
その後、お釈迦様の悟りの生涯を立体塑像で描く西塔内を見学後に、中門に続く西回廊に設けられた野点席で振る舞われている煎茶を頂いた。
その後、初めて火渡り式を見せてもらった。最後まで見ていて、帰り際、もう終わりますよとの声に促され、どうしようかと迷っていた私も火渡りをして寺を後にした。
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火渡り式 |
花会式の時期の薬師寺詣では、毎年の私の行事になっている。
ただ、心残りは写経をしていない。般若心経の毛筆書きの練習を続けなければと思っている。
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11.「薬師寺・天武天皇画像と小倉遊亀さん」2017/6/1(木) 午後 9:55
大津市の膳所に石坐神社があり、そこには天智天皇、大友皇子、伊賀采女宅子媛の木彫神像があり、10年に1度の御開帳の時、その像を拝ましてもらい、小倉遊亀さんは、「或るご神像」と題した絵を描かれた。
その拝ましてもらった木彫の天智天皇の御顔は、壬申の乱で天武天皇に裏切られ大友皇子が自害させられたことへの無念の相が表われていたと小倉遊亀さんは見てとった。それで、描かれた絵の右目のまなじりは吊り上っているという。以上の様に、ボランティアガイドでも解説していた。
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或るご神像 |
一方、天武天皇の法要をされている薬師寺は、小倉遊亀さんに天武天皇の神絵を描いて欲しいと依頼された。しかし、天武天皇を良く思っておられない小倉遊亀さんは最初断られた。
そこで高田好胤管長の奥様が、色々資料をお持ちして説得し、天武天皇が後で後悔されたと知って、描かれることになったということである。
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写真左から・天武天皇、持統天皇、大津皇子 |
滋賀県立美術館での絵の解説、小倉遊亀さんの日記と薬師寺の安田暎胤管長の著書「薬師寺物語」の双方の資料から、初めて真相が分かった。
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