2017年3月18日土曜日

Hashikura君のメキシコ旅行とカルロス・ゴーン氏の私の履歴書

1.愛読・日本経済新聞の私の履歴書
我が家では、日本経済新聞をとっていて楽しみに読んでいるのが、最後のペーに掲載されている「私の履歴書」です。
興味が尽きない波乱に満ちた半生を綴ったニトリHD創業者・似鳥昭雄社長、誰もが認める仕事人・吉野家ホールディングスの安部 修仁会長 、対照的なゴルファーの岡本綾子氏、樋口久子氏と米国ゴルフ殿堂入りのトムワトソン氏、パリーでの華々しい成功と挫折も味わった
ファッションデザイナーの高田賢三氏、銀行マンと作詞作曲家の兼務をこなしたシンガーソングライターの小椋佳氏などワクワクしながら読んでいます。

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今年の1月からの筆者は、カルロス・ゴーンさんだった。
日産再生の記事を読み進むうちに、昨年9月に貰ったHashikura君からのメールに書いてあった11月上旬のメキシコ旅行(日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)を思い出した。

2.Hashikura君に投稿依頼
(Hashikura君からのメール)2016.09.19
連絡ありがとうございます。
・・・・・・・
私は落語を年2回ほど、新宿の末広亭に行き、楽しんでいます。
好きな落語家は人間国宝とも言われている柳家小三治(我々と同年令)です。話術の凄さはまさに神業で引き込まれます。
寄席には、上手な漫才師も出て来て、早いテンポで面白く、機知豊富で笑います。
さて、当方が今夢中になっているのは、TOEICのテスト(目標スコア700点以上)を年内に受けるべく楽しく勉強していることです。
あと、11月上旬メキシコ州に旅行(日産開発部門のOB会のツアー。日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)があります。
Hashikura
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(私からHashikura君へのメール)2017.01.24
現在、日経新聞にカルロス・ゴーンさんが私の履歴書を書いておられます。毎日読んでいます。
自分を誇示することなく、日産のリバイバルは、指示した方針に社員が成し遂げたと書いています。指導者としての大きさを感じます。
昨年、日産メキシコを訪問されましたが、日産の工場見学と再生について何かお知りのことを書いていただけたらと思います。
imasan
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(Hashikura君からのメール)2017.01.30
返答遅れてごめんなさい。いつも励まして頂きありがとうございます。
メキシコはトランプ騒動で大変ですが頑張って乗り切って欲しいと思ってます。
私の出会ったメキシコの人達はとても親日的でした。メキシコがとても好きになりました。
とりあえずブログには出しませんが添付の写真集でメキシコの報告をいたします。
いいテーマが思いついたらブログに挑戦したいと思ってます。
Hashikura

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今年の1月は、アメリカノトランプ大統領からメキシコへの激しい攻撃とも思える要求があり、今後の展開が分からず、記事を書くには難しい時期でした。



3.メキシコの写真(1)
送られてきた組み写真を見て。今まで知らなかったメキシコの活気を感じました。

4.メキシコの写真(2)
(Hashikura君からのメール)2017.02.14
今回追加分含めて適宜使って下さい。メコシコ日産開発部門見学の項などです。
丁度アメリカ大統領選のトランプ確定のテレビ映像はホテルで撮ったものです。
それと翌日の新聞スタンドの様子です。


5.メキシコの写真(3)
(Hashikura君からのメール)2017.03.07&08
メキシコの写真では古代遺跡テオテイワカンの絶景?の添付を忘れていました。写真送ります。
一緒に写ってる茶色のジャンパーを着ている人は群大工学部39年卒の保坂篤一郎さんです。
同じ開発部門にいました。

今年はカブト虫の幼虫が殆ど見つからず夏の昆虫講座は休講しようと思ってます。


Hashikura君、多くの写真と感動を有難う!
5.メキシコのこと 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 、その他からの抜粋です。
5-1.メキシコの概要
メキシコ合衆国、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。
首都はメキシコシティ。公用語はスペイン語。総人口は約1億3千万人(2016年現在)。スペイン語圏においては最も人口の多い国である。

メキシコでは、マヤやアステカ等の古代メソアメリカ文明、スペインを中心としたヨーロッパ文化、隣国アメリカの大きな影響力など、その激動の歴史を背景とした様々な要素を感じることができます。
5-2.メキシコの歴史
メキシコの歴史は、大きくは下記の5つの時期に大別されます。
1.紀元前~15世紀:マヤやアステカ等の様々なメソアメリカ文明の旺盛
2.16世紀
19世紀:約300年間に渡るスペインの植民地支配
3.19世紀:スペインからの独立と独立後の内政混乱、アメリカやフランスとの対外戦争の勃発
4.20世紀:独裁政権に対するメキシコ革命の勃発、石油等の豊富な資源を背景にした高度経済成長と2度の経済危機
5.21世紀:対米輸出を軸にした輸出・製造拠点としての注目度上昇



6.カルロス・ゴーン氏の私の履歴書について
以下の記事は、日産自動車ニュースルームの「カルロス・ゴーン氏 私の履歴書」から抜粋させて頂きまた。

カルロス・ゴーン氏が、会社人生で何をどうされてきたかの一端が窺い知れると思います。
お読み頂けたらと思います。

カルロス・ゴーン氏 2017-1-1 私の履歴書
第一章: 幼少~学生時代
「機内から」
東京・パリ…世界駆ける 多様性 私のアイデンティティー。
今、大西洋のどこかだ。高度は1万4千メートル。そう、出張のためブラジルに向かうコーポレートジェットの機内でこれを書いている。
まずは謹んで皆様に新年のご挨拶を申し上げたい。日本の最も晴れやかな日、元旦から私の半生を振り返る場所を与えていただき、感謝の気持ちでいっぱいだ。
私は通常、月の3分の1ずつを日本、フランス、第三国で過ごす。一日一日はどれも違っていて、特別だ。例えば、パリでの生活は東京とは違う。米国やロシア、中国、ブラジルにいる時も各国のスタイルに身を委ねる。
では、グローバル化の時代に大切なこととは何か。私は迷わず「アイデンティティーを失わずに多様性を受け入れることだ」と答えるだろう。多様性とアイデンティティー。それは私の人生を的確に言い表した言葉でもある。
祖父はレバノンからブラジルに渡った移民だ。私はブラジルで生まれたが、幼少期から高校まではレバノンで過ごし、大学はフランスだ。米国でも長く生活した。
私はブラジル人であることを忘れたことはない。昨年8月、五輪のあったリオデジャネイロに帰った。「リオではゴーンさん、別人ですね」という人もいる。もしかしたら本来の自分に戻れる場所がリオなのかもしれない。だが、レバノンの文化や歴史も大切だ。フランスも重要な国だ。
最も顕著なのが今だ。私は日本を代表する自動車メーカーで社長を務め、仏ルノーの会長でもある。1人の人間が文化の異なる2つの国の大企業でトップを務めるのは奇跡だ。だが、現実でもある。

「パリで大学へ」
17歳になると、待ち受けていたのは進路の選択だった。、母はフランスの大学を薦めた
大学入学資格試験のバカロレアに合格した。フランスに移ることになった。
受験のための準備校に2年間通わないといけなかった。2年の努力の結果、門は見事、開かれた。
理系の最高峰、エコール・ポリテクニークはフランス革命中の1794年に設立された国防省直轄の学校で、在学中はまだパリ市内にあった。驚いたのは給料がもらえたことだ。学校は国を挙げて若いエリートを教育し、国の発展と安定のために素養を身につけさせる。
卒業生に官僚や政治家が多いのもうなずけた。

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カルロス・ゴーン氏は、レバノン移民のブラジル人で、高校まではレバノンで学び、大学はパリーの理系の最高峰の大学で学んだ。
特筆すべきは、フランスは、カルロス・ゴーン氏は受け入れ教育の機会を与えたということである。imasan

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第二章: 社会人生活開始

「ミシュランへ」ヘッドハンターの電話 同期100人、26歳で工場長抜擢。
「ブラジル赴任」巨額負債を3年で再建 ストの組合とも直接対話。
「同業買収」
米国流の経営から刺激 「コストカッター」異名取る。
着任早々の仕事は同業大手、米ユニロイヤル・グッドリッチの買収をまとめることだった。
だが、問題は買収後だった。同社は古い設備を多く抱えており、生産能力の適正化が必要だった。
私は買収の合意に合わせ、3つの工場の閉鎖を発表した。風当たりは強かった。
その後、私について回る「コストカッター」の呼称が授けられたのは、この頃だった。

私はミシュラン、ユニロイヤル双方から最良の人材を集めて経営執行委員会をつくった。
やがて日産自動車に誕生する「クロスファンクショナルチーム」の原型である。

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最初に就職したタイヤメーカで、早くも、「チーム作り」と「コストカッター」で会社を再生させた。

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「ルノーへ」
「ナンバー2でいいのか」 18年つかえたミシュラン去る。

96年3月だった。一本の電話がかかってきた。「自動車メーカーに興味はありませんか」。
「ルノーがナンバー2を探しています。いずれトップの後継者になる人です」。
「君は候補者の1番上だ。少しでも早くルノーに来てほしい」とヘッドハンタ-のシュバイツァー氏は言った。
私は「よろしくお願いします」と答えた。
ルノーからのオファーを受けたのは、いつかトップになりたかったからではない。
新しいことを学び、挑戦したかったのだ。

以前から多くのサプライチェーンを巻き込む自動車事業に興味があった。
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第三章: ルノーの再生
「アウトサイダー」
ルノー 官僚体質にメス ベルギー工場閉鎖 抗議の嵐。

私はブラジルや米国の時と同様クロスファンクショナルチーム」をつくった
部門の厚い壁を壊し、風通しを良くして一緒に問題の解決にあたる状況をつくるわけだ。
97年3月に発表したのが「200億フラン削減計画」だった。社内に衝撃が走った。
計画にはやはり米国やブラジルと同様に数値目標を掲げ、期限を定めた。
部品の種類を減らし、単価を下げるのは部品メーカーにとってつらい作業だが、協力してくれたメーカーには取引する量を増やして報いた。
最大の難関がベルギーのビルボールド工場閉鎖だった。
だが、それでルノーはよみがえった。労使のもめ事も徐々に消えた。

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カルロス・ゴーン氏は、ルノーでも「クロスファンクショナルチーム」を作り、コスト削減を数値目標と期限を定め成功に導いた。
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「提携交渉」
他社との統合や提携を考える時が来た。

本命は最初から日産、ルノーの「200億フラン削減計画」説明。
日産は当時、救世主を求めていた。業績は過去10年で1回しか黒字になっていなかった。
当時の塙義一社長はすでにダイムラークライスラーやフォード・モーターと出資を巡る交渉を始めており、ルノーは後じんを拝していた。ルノーの交渉チームは最初から日産に的を絞り、精力的に日本に足を運んだ。いい感触があった。
根気よく粘ったのは正解だった。99年3月、ダイムラーのユルゲン・シュレンプ会長は「この案件からすべて手を引く」と言い残して東京を後にした。
私はジュネーブでそれを聞いた。気がつけば、我々は交渉で土俵に残った唯一のプレーヤーだった。まさに青天の霹靂。
一昨年12月に亡くなった塙さんは後にこう教えてくれた。「ルノーと提携したら、ゴーンさんを送ってもらえるように頼もうと思ったのは、あの時だよ」シュバイツァー会長はある日、「送る人間は君しかいない」と私に告げた。

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第四章: 日産の再生
「日産へ」
異質な人同士 心一つに ルノーから管理職 溶け込む努力。

私は、日本での生活もいずれ私の人生の一部になると確信していた。だから溶け込みたいと思った。もちろん、妥協するつもりもなかった。
ルノーから幹部や管理職クラスが日本に到着しつつあった。

人選で重視したのは熱意と、開かれた精神の持ち主かどうかだった。
日本に着いたら植民地を支配するように振る舞いそうな人はふさわしくなかった。

必要としたのは、日産の人々と一緒になって問題解決に当たれる人材だった。
日産ニュースリリース記事より

「再生計画」
2年で20%コスト削減 10人10チーム 数字に裏付け。

日産自動車の再生計画は社員が自ら作ったものだった。
各部門から集められた中間管理職の「クロスファンクショナルチーム」(CFT)が中心を担った。
1チームは10人。購買、生産、財務など10のチームに分かれ、詳細を詰めていった。
CFTは私の経営手法の中心をなし、それまでにも他の企業で経営課題をいくつも解決してきた実績があった。私も各チームの議論に加わった。中でも思い出すのは購買だ。

日産の車はルノーに比べて20%も高く部品を買っていた。
高級品を使っていたわけではない。取引していた部品メーカーがあまりにも多く、規模の経済を生かせていなかった。

日産は絶望的な状況にあった。国内シェアは26年も下降線をたどり、1999年まで8年間に7回も営業赤字を計上した。
有利子負債は2兆円を超え、新型車を出せる状況ではなかった。
なぜか。1つは利益を大切にしてこなかったからだ。99年当時を振り返ると、日産は43種類の車を売っていたが、黒字を出していたのはわずかに4車種だった。

NRPでは5つの工場を閉鎖し、従業員を15万人から2万人減らしたが、再生後は世界中で15の工場を新設した。
従業員数も24万5千人と2倍近くに拡大した。財務では2兆円あった有利子負債が減り、手元資金がそれを大きく上回る状態になった。


日産は売上高営業利益率を4.5%にし、有利子負債を7千億円以下に減らす、などの公約を02年3月期に1年前倒しで達成した。「V字回復」といわれた。

更に先を読みたい方は、日産自動車ニュースリリースの記事をお読みください。
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私が抱いていた漠然としたカルロス・ゴーンさんのイメージとは違い、履歴書を読んで尊敬の念を抱きました。また、ゴーンさんだから出来た日産再生を理解した。
長い記事をお読み頂き有難うございました。 imasan
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2017年3月3日金曜日

学校で経験したことが役立った「ある方法」とは          ・・・・・・   imasan

1.今回のテーマはどんなこと?
一般的に、学校で習ったことが、社会へ出で直ぐには役立たないと言われている。
私の経験したことであるが、大学の卒業研究の実験で使ったある方法が入社3年目で役立った例を紹介したいと思います。



2.卒業研究のテーマとその方法
私が所属した研究所の卒研のテーマは「ジェットポンプの研究」です。
そのテーマを選んだ理由は、ただ、ポンプメーカに入りたいとの希望があっただけのことでした。

思い出すのは、その卒業研究結果の発表の時、Watanabe君が説明を始めた最初の段階で、町田教授より発言がありました。「毎年、毎年同じテーマの研究で進歩がない。他のテーマを選んではどうか」と言う提言でした。
一瞬、何故この段階でと唖然としたが、それに怯まず、Watanabe君が発表を続けてくれました。


卒研を発表するWatanabe君
さて、この研究では、吸い込み口の口径、先端ノズルの形状と位置などパラメータが多く、全ての組み合わせで実験するには時間がかかります。
それで使ったある方法」とは、統計学の「直行配列表を使った実験計画法でした。
研究室の本棚に何冊かの本があるのに気付き、自然と使った記憶があります。


吸い込み口

サイズの違うノズル
3.学校で使ったことが役立ったこと
学校を卒業し会社に入社し、繊維機械の自動ワインダー製造部門の生産技術係に配属された。
その3年目の昭和40年4月、上司から中央研究所に「硫酸浴による硬質アルマイトの研究」を依頼しているが、目標の硬さが得られていないので、研究に加わるように言われた。
それが、出来ないとKaneboさんに自動ワインダーを買ってもらえないのだと言う説明だった。
その理由は、これまでアルミの鋳物に硬質Crメッキした綾振りドラムを使っていたが、メッキが溝底にはつかず、アルミ地と糸が擦れて染色に悪いという理由からでした。
一方、硬質アルマイト処理したドラムは、溝底まで均一にアルマイト層がつきます。

この研究の目的を聞いて、卒業研究で経験した実験計画法を使ってテストする事が最適と判断し提案した。
その理由は、「何が、硬度に影響を与える主因子かをいち早く見出せると思ったからである。
その後、上司と研究者の許可を得て、具体的に硬質アルマイト処理の4つの因子をあげて、それぞれ2水準の実験条件を決め、直行配列表を使った実験計画を立てた。


実際の実験計画
その実験を行い、データを分散分析した結果、硬度に大きな効果のある因子が電流密度であることを見出すことが出来た。
主要因が判明したので、他の条件との組み合わせ第2回目の実験をした結果、目標の硬さ
を得ることの出来る処理条件が見いだされた。

実験の解析結果
その結果、幸いにもKaneboさんから初めて自動ワインダーを受注することが出来た。
受注した最初の1台分は、1度に2個しか出来ない小さな実験装置でアルマイト加工した。


表面が黒い色が硬質アルマイト加工したドラムです
この経験から、諸条件を2個の処理からを26個分へのスケールアップ設計をすることで、設備が完成した。素人私が出来たのは、その方法が考え方の道筋をつけてくれたのだと思います。


ただ、残念ではあるが、アルマイトの設備が出来てから6年ほどで、繊維機械から撤退した。
以来、その後の趨勢が分からないままだった。



4.何故こんな話を今?
今年、町内会のゴルフクラブの新年会で隣に座った方から、何処の会社にお勤めか聞かれた。
会社の名前を答えると、御社からいろいろな部署のアルマイト処理をさせてもらい儲けさせてもらっていると言われた。
この「アルマイト」と言う言葉を聞いて、50年前の硬質アルマイトに関する様々なことが蘇ってきたからです。何か熱いものを感じました。それが今回のテーマです。



5.50年前の設備はどうなっているだろうか?
硬質アルマイト加工設備は、綾振りドラム製造専門メーカの要望でそこの建屋に設置した。
その工場がどうなっているのか気になって、恐る恐るメールを送ってみた。

すると下記の返信が届いた
本日は、私共の事を想い出して頂きまして、お便りを下さり、誠に 嬉しく 有難うございます。
お名前は、よく父から、“開発から、製品まで、○○さんのお陰で出来たんや”と、いつも感謝して、皆に話して聞かせておりましたので、記憶しております。
おかげさまで、今も、ワインダー用のドラムを造らせて頂いております。
設備・建屋とも古くはなっておりますが、今だ、機能は充分に発揮して、アルマイト処理を続けさせて頂いております

と懐かしい心温まる内容だった。返信の言葉に心が動いて、先月24日に大阪八尾にある工場を訪問し、硬質アルマイト処理工場内を見せて頂いた。(下の写真)

当初より少し大きくされた処理槽

担当の方の話で、今も当初と全く同じ条件で硬質アルマイト処理を週2回されているとのことだった。アルマイト加工された素晴らしい製品と工場の皆様と話が出来に感激した次第です。

現在は、アルマイト加工ドラムの時代から球状黒鉛鋳鉄にイオン窒化処理したドラムに変わってきているそうだ。
しかし、硬質硫酸アルマイト加工の条件は変わっていなく、国内の多くの所で行われている。



これ、偏に「実験計画法」のお陰、いや、「ジェットポンプの研究」のお陰である。何をどう使うかのアイデアがあれば、学んだことを生かせると思う。