私の郷里は伊豆の下田市であるが、現在私は車で1時間ほどの東伊豆町の熱川地区に住んでいます。先月野暮用で下田へ行ったとき、信号待ちで横を見たら「黒船祭」の案内板が目についた。そう、5月になると黒船祭が行われることを思い出しました。郷里を離れてから黒船祭のことをすっかり忘れていました。
黒船祭は、ペリー提督率いる米国海軍が黒船で来航したのが1854年。この後下田開港につくした内外の先賢の偉業をたたえ、併せて世界平和と国際親善に寄与するため、昭和9年(1934年)に始まったのがこの黒船祭です。とのことで今回で第76回とは長く続いたものだ。私が子供のころの初期の黒船祭は素朴なもので日米親善野球が最も大きなイベントであっが今では盛り沢山な催しがある。
下田・黒船祭 <==== 黒船祭の詳細はこちら
「黒船来航当時の下田」
ペリー提督が日本に来航したのが1854年、そして下田開港につくしたとのこと。実際は日本を支配下に置きたくて圧力をかけに来たものと思う。そして下田にも上陸して開港を迫ったのが実情だろう。4隻の黒い蒸気船が下田の沖に現れて上陸し、了仙寺まで凱旋したのだ。いずれにしても日米和親条約にもとづき下田は開港されました。そして少し遅れ1856年3月に駐日領事としてタウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺に領事館を構えたのである。数年のうちに小さな港町は米国の影響を大きく受けた。この時に一人の女性、斎藤きち(後のお吉)が現れたのである。
「お吉の生涯」
[下田一の芸者]
斎藤きち(後のお吉)は1841年愛知県に生まれ、4歳のとき一家で下田に移る。事情があって14歳で芸者となったがその美貌と才知で瞬く間に下田一の人気芸者となった。そしてお吉と名乗った。
[唐人お吉]
一方ハリスは玉泉寺の領事館で精力的に日米外交業務を行っていたが、体調を崩してしまった。そして日本人看護婦の斡旋を地元役人に依頼してきたのである。しかし、妾の斡旋と誤解して役人はお吉を選んだ。婚約者もいたお吉は強く固辞したが、役人の お国のためと 強硬な説得に負けてハリスのもとへ行ったのである。当時は日本女性が外国人の世話をしたりして親密になることは恥と考えていた人々はお吉に侮蔑の目を向けたのだ。ハリスの容態は回復して3ケ月後にはお吉は解放され再び芸者となったが人々の冷たい視線は変わらなかった。この頃からではないだろうか、唐人、唐人お吉と呼ばれるようになったのは!そして彼女は次第に酒に溺れていった。職を変えてみたがアルコール障害となって暴れたりした。その後数年間物乞いを続けた後、1890年3月27日豪雨の夜、濁流と化した稲生沢の門栗ケ淵(お吉ケ淵)に身を投げたのだ。引き上げられた遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、河川敷に3日間放置し、人々は死後もお吉に冷たくあたった。
注)現在は下田の宝福寺に弔われ、新渡戸稲造博士はお吉地蔵を建立されるなどして、お吉の理解者も現れた。
玉泉寺でハリスのお世話をするお吉。
(等身大の人形)
「お吉ケ淵」身も心もボロボロになり豪雨の夜、濁流渦巻く淵に身を投げようとするときのお吉さんの心を想像すると、大げさに言えば鳥肌がたつようだ。その投身自殺した場所はなんと私の郷里の家から2Kmの所であった。
稀に訪れる人もいるようだ。人が立っている所が淵で想像に反して水深30cm弱で水面は鏡のようで何の変哲もない川でした。私がこの場所を訪れたのは1995年ですが、もう一度あの川面を見たいと思います。
昔の淵は水量も多く恐ろしく見える。 お吉19歳
「吉田松陰と唐人お吉」
ペリーが下田沖に来航したときに、弁天島から密航を企てたのが吉田松陰である。時間的に少し遅れてハリスが柿崎の玉泉寺に領事館を構え、お吉がお世話のために行った。
吉田松陰の弁天島とお吉の玉泉寺は直線距離で250mしか離れていない。時間的なずれはお吉が14歳で芸妓になった時に、松陰は密航失敗し投獄され、お吉が19歳のときに松陰は処刑された。松陰とお吉は直接の因果関係はないが、海外から日本への圧力は強くそのうねりの中で、この狭い港町で2つの事柄が起こったと思う。
「最後に」
このように混沌とした時代に、あわよくば交渉ごとを有利に導こうとした役人からお国のためと説得されて「唐人」のもとにお吉は派遣されたのだ。お吉は感謝されて当然、それが「唐人お吉」と冷たい視線、軽蔑の目でみられひどいいじめにあったのだ。多分人々はお吉が置かれた立場を理解してあげることができなかったのだと思う。そのために思い違いが起こり人々は憎悪の目を向けたのだろう。そうしてお吉さんは悲しい生涯を送ったことに、私は何ともやりきれないし、納得できない。しかし、今の時代でも人の話を聞かず、相手の立場を理解しないために悲しい、不幸な出来事が起こっているのではないだろうか?松陰みたいな大志を抱いて行動した陰で、同じように生きたお吉さんを忘れることはできない。 以上 (A.Ishii)
註記)可能な限り簡単に記述しました。お吉さんに関する詳細を知りたい方はネットなどで調べてください。しかしはっきりしたことはなかなか分からず推測の部分もあります。何しろお吉さんの写真すら一枚あるかないかなのです。
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「追記」・・・投稿後の展開
(1)投稿記事を読まれた野尻さんから次のコメントが寄せられた。
黒船祭と唐人お吉の話、そして皆さんのコメント大変興味深く読みました。黒船来航の記事で思い出すのは当時の幕府の役人で、ぺりーとの交渉に当ったのが「黒川嘉兵衛」という人物で、実はこの人は、私の姉の連れ合いで町田市に住んでいた「黒川清」(3年ほど前に他界)の曽祖父であることが判明しました。黒川嘉兵衛の「銀盤写真」が黒川家で発見され、町田ジャーナルに紹介されました。このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。別途関連写真をメールで送ります。

(拡大すれば読めます)
(2)黒川嘉兵衛さんのこと。(ネットで調べてみました。)
黒川嘉兵衛さんの経歴
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「追記」・・・投稿後の展開
(1)投稿記事を読まれた野尻さんから次のコメントが寄せられた。
黒船祭と唐人お吉の話、そして皆さんのコメント大変興味深く読みました。黒船来航の記事で思い出すのは当時の幕府の役人で、ぺりーとの交渉に当ったのが「黒川嘉兵衛」という人物で、実はこの人は、私の姉の連れ合いで町田市に住んでいた「黒川清」(3年ほど前に他界)の曽祖父であることが判明しました。黒川嘉兵衛の「銀盤写真」が黒川家で発見され、町田ジャーナルに紹介されました。このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。別途関連写真をメールで送ります。

(拡大すれば読めます)
(2)黒川嘉兵衛さんのこと。(ネットで調べてみました。)
黒川嘉兵衛さんの経歴
嘉永6年(1853年)浦賀奉行組頭として黒船来航に対処したのを皮切りに、翌嘉永7年(1854年)の再来航に際しても交渉事務を担当し、下田奉行組頭も歴任する。しかし安政5年(1858年)より始まった安政の大獄によって免職させられ、差控となった。
文久3年(1863年)一橋家に用人見習として取り立てられ、翌文久4年(1864年)には番頭兼用人となり、以後は一橋家家老・平岡円四郎らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐した。慶応2年(1866年)にいったん失脚して一橋家を致仕したが、慶応4年(1868年)再び慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いに敗れて謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛している。晩年は京都で過ごした。下田奉行の頃、黒船に乗りこんで密航を企てた吉田松陰を尋問したことでも知られる。
嘉永7年(1854年)、マシュー・ペリーの配下の写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアによって撮影された黒川の銀板写真は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真の一枚として、2006年に重要文化財に指定された。(以上I/Net)
黒川嘉兵衛さんは上記の如くすごい経歴の持ち主です。私は野尻さんの「このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。」と言う点に的を絞り再調査しました。
実際にお吉さんを口説き、1857年にハリスの滞在する玉泉寺にお吉さんを派遣したのは下田奉行組頭の伊佐新次郎という人です。しかし、黒川嘉兵衛さんもこの頃下田奉行組頭を歴任されていたので、計画の相談にあずかったか否かは定かではありません。いずれにしても伊佐新次郎が実務者です。その証拠に伊佐新次郎は後年、お吉さんに悪いことをした。会って謝りたいとお吉さんを訪ね歩いたそうです。 以上 (A.Ishii)
石井様 唐人お吉の最後は知りませんでした。
返信削除書かれた様なみじめな最後だったのですね。
何と日本人は冷たかったのでしょう。
心が痛みますね。興味ある投稿有難う。
今川
投稿テーマとしては昔のことで新鮮ではありませんが読んでいただきありがとうございます。私は何故かこのお吉さんのことが可哀想でなりません。広い意味で現代でも起こっている類似のことがなくなることを願うのみです。
削除唐人お吉の生涯は、とても悲しく侘しい限りです。今で言えば虐めでしょう!
返信削除誰かが受けなければならない務めを、お吉が受けたことでどれだか大勢の女性が助かったかも顧みず、感謝こそして当たり前のことなのに、不潔感を露わにして孤立化させるとは言語道断です。矢張りことの端緒は役人のケアが全く出鱈目ということでしょうか?
被災振りに憤慨する問題を提起して頂き有り難うございました。
それにしても、石井さんご指摘の通り下田市は、日本近代化に深くかかわりがありますね。観光資源も豊かだしもっと発展すると良いですね。
大島さんに言葉をかえてスバリ言っていただいたようで、すっきりしました。陰湿ないじめがなくなるとよいですね。一方おっしゃる通りで下田は以前は昼でも商店街のシャッターが下りていました。最近は少しよくなったようです。コメントありがとうございます。
削除今日、否、昨日テレビで見たのですが、東伊豆町の空き家を芝浦工業大学の学生と地元の人達が一緒になって、手入れをして資料館に作り直すと放映していました。今回は1階部分が完成したのでオープンだとか。次は2階を手掛けるとか。学生たちは、現地まで車で4時間かけて週末の金曜日に来て、泊まって土曜日に帰る様です。近所の人がお風呂を提供すなどして老若の交流が広がって、相互に良い影響を与えている様で、新しいコミュニテーの始まりに期待しています。
削除大島さん、私の居住地の小さな町への関心を感謝します。確かに大学生が空き家改装などの活動をしております。一度現地を確認してみます。そのほかに行政は、家庭菜園の土地を宿泊可能なコテージをつけて60万円/年?(高いと思うが)で貸出たり、オリーブを植えたり、と試行しております。一度このようなことを現地調査して、このブログで報告もいいかなと思いました。コテージつき家庭菜園は既に契約者がおります。都会の方々は土に触ることに大きな魅力を感じるようですね。コメント欄への書き込みありがとう。(A.Ishii)
削除下田の黒船祭、唐人お吉、玉泉寺などのキーワードは、毎年その時期になるとTV報道があり、表面的には知っていますが、今回の記事で詳しくわかりました。特に「お吉さん」が身を投げた、お吉が淵の写真には心が痛みました。それにしても、Ishiiさんの記事は、編集、文章とも上手ですね。感心しました。
返信削除いつの世も相手の立場に立ち、接することが大切と思っています。
死ぬ気で淵のところに立ったとき、どんな気持ちだったでしょう。その場所が分かったときすぐとんでいきました。1995-9-23のことでしたがそこはとても浅く拍子抜けしました。しかし川底から無念の声が聞こえるようで、心が痛みしばらくそこに佇んでいました。コメントありがとうございます。
削除石井さんの家で青春の幾日かを過ごした思い出の地である下田のことも、記憶力減退とともに、事実上だいぶ遠くなってきました。しかし興味は大いにあります。今回黒船祭りから「お吉」の話まで興味深く読ませていただきました。お吉の悲しい身の上を青色で強調して結んだところは、石井さんのやさしい心が表れていると思います。
返信削除大島さんが現代のいじめに結び付けておりますが、日本人は、そういうことに関して、概して他国の人より慈悲深いと思っておりましたが、お吉の例のようにそうとも言えないところがあります。生まれによって差別が行われてきたことは事実です。私の勤務した学校は「足利仏教和合会」が設立しました。お釈迦様は「生まれによってバラモンなのではない。行いによってバラモンなのである」と二千五百年前に喝破されました。大乗仏教は日本において完成されたといわれておりますが、その陰で差別が統治の手段の一つとして行われてきたこともあり、人権という名のもとに行われている学校教育における指導もたてまえに近いような気がします。この抜きがたい日本人の差別感情は、欧米人の反ユダヤの感情などと違って同じ民族内のきわめて陰湿なものです。この解消は、軽々にいえるものではありませんが、人権教育ももちろん必要です、また差別する側に属する人もされる側もかなり勇気と忍耐が必要な気がします。話が、飛躍してしまいましたが、「お吉」に戻って、肝心なお吉の身内の人たちはどうだったのでしょうか、あのような状況の中で、父母や身内が見放したら、当然きわめて悲惨な状況になるでしょうから。
コメントとは思えない丁重な感想と御釈迦様の教えなど引用いただきありがとうございます。貴兄が勤務された学校は特色ある仏教に裏付けされた素晴らしい教育をされておられるようですね。その辺のことを一度差支えなければ投稿していただけたらと思います。(A.Ishii)
削除黒船祭と唐人お吉の話、そして皆さんのコメント大変興味深く読みました。豊島さんのコメントの通り、石井さんの記事はすばらしいですね。黒船来航の記事で思い出すのは当時の幕府の役人で、ぺりーとの交渉に当ったのが「黒川嘉兵衛」という人物で、実はこの人は、私の姉の連れ合いで町田市に住んでいた「黒川清」(3年ほど前に他界)の曽祖父であることが判明しました。黒川嘉兵衛の「銀盤写真」が黒川家で発見され、町田ジャーナルに紹介されました。このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。コメントの中に写真を張り付ける方法が解りませんので、別途関連写真をメールで送ります。
返信削除私のちょっとした投稿記事から意外な展開になり、胸がドキドキします。黒川嘉兵衛さんのことも少し調べてみました。メールでいただいた写真と記事はコメント欄には貼り付けできません。私の投稿記事の最後の部分に追加する形で添付・発表させていただきます。ありがとうございました。
削除石井君、良くここまで黒田嘉兵衛のこと調べられましたね。
返信削除野尻君の提供した資料が、石井君の記事と繋がって、読み応えのある内容になりました。ノンフィクションの小説を読んだようで面白かったです。
今川君、改訂版を読んでくれてありがとう。野尻さんの「黒川嘉兵衛」はすごい人だ。当時の日本の外交官或は外務大臣に相当したと思う。それにしても人の繋がりは面白いものですね!
削除石井さんに感謝します。当方そこまで調べるつもりは無く、失礼しました。今さんと、石井さんのコメント欄に「黒田嘉兵衛」とありますが、黒川嘉兵衛です。
返信削除大変失礼しました。訂正させていただきました。
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