皆様 明けましておめでとうございます。
大理石で造られた仁徳天皇陵模型
毎年2回、春と秋、2005年5月スイス・ドイツを旅行した仲間と日帰り旅行をすることにしている。それが続いてもう12年になる。
今年の秋は、世界遺産になった仁徳天皇陵古墳に12月1日(日に行って来た。
仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳、または、大山古墳とも言う)について
国連教育科学文化機関(ユネスコ)第43回世界遺産委員会は、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳(大山古墳、堺市)を含む大阪府南部の「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の世界文化遺産への登録を決めた。
古墳群は4世紀から5世紀後半にかけ、大阪府南部の百舌鳥地域(堺市)と古市地域(羽曳野市、藤井寺市)に築造された49基で構成する。
古代日本の政治や文化、建築技術を知る貴重な手掛かりとされる。
墳丘の長さが486メートルで「世界最大級の墳墓」とされる仁徳天皇陵古墳や、同425メートルで国内2位の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳、羽曳野市)が代表例だ。
墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。
日帰り旅行行程
関西各地に住んでいる仲間たちは、それぞれの自宅から集合場所の[JR百舌鳥駅」に向かう。 大津市南郷に住む私は、JR石山駅から新快速でJR大阪駅に行き、大阪駅からは関空快速で阪和線のJR三国ケ丘駅で降り、普通に乗り換えて、仁徳天皇陵のあるJR百舌鳥駅で皆さんと合流した。1時間30分で行けた。また、日曜日で通勤客が少なく、全行程で座れた。
今回は、忘年会も兼ねており、時間のかかる仁徳天皇陵古墳と周辺の古墳群の散策はやめ、仁徳天皇陵と隣接する大仙公園内の堺市博物館内の展示で仁徳天皇陵古墳を学ぶことにした。
見学後にシャトルバスで堺駅に行き、堺市役所の最上階21階から仁徳天皇陵を見下ろす。その後、駅に戻り、南海電車で新今宮駅に行き、歩いて忘年会の会場、フグ料理の「づぼらや」で行く。終わって解散する。
仁徳天皇陵参拝
駅から仁徳天皇陵古墳まで歩いて行く。
ボランティアガイドの説明
仁徳天皇陵内部へ入れず外観しか見れないので、仁徳天皇陵前で待機しているボランティアガイドの説明を聞いた。
上空からの写真を見せて、前方後円墳の成り立ち、歴史、規模、発掘調査で出てきたものなどの説明を受けた。
前方部を南に向けた墳丘は全長約486メートル、後円部径約249メートル、高さ約34.8メートル、前方部幅約307メートル、高さ約33.9メートルの大きさ。
エジプトのピラミッドより規模で大きい。
もともとは、100基近くあったが、土地開発で少なくなってきたという。
復元された五色塚古墳の写真、これで当時の古墳の形が理解できる。
大仙公園と博物館
仁徳天皇陵に隣接する大仙公園内がある。
古墳近くに古墳名の公園や博物館があり周りが整備されている。
堺市博物館見学
仁徳天皇陵前の道路を挟んで向かい側の大仙公園内に堺市博物館がある。
仁徳天皇陵は、外部は木々に覆われ、また、内部も入れないので見ることが出来ない。
それで、隣接する博物館で古墳の歴史を学んだり、発掘されたものを見て学べるようになっている。
古墳関係の展示
それぞれの古墳で発掘された陶器や埋葬品などが展示されている。
前方後円墳の円形部分の頂部の下に埋められている石棺。内部は空だったとのこと。
明治5年(1872)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。
棺の横に置かれていた錆びた甲冑。
甲冑を身に着けてみるコーナがある。頭に載せてみると相当重い。
墳丘の構成
墳丘の側面は、盛り土が崩れないように、表面を拳大の石が並べている。
ただ、現在は、鳥が運んだ植物の種が成長し、木々で覆われ森となっている。
墳丘の稜線に並べられていた円筒埴輪。一番右は朝顔型。
境関係の展示
戦国時代、堺で製造された鉄砲などが展示されている。珍しい大型の鉄砲。
大砲も置かれていた。
堺の町を書いた絵図、そのた外国で書かれた当時の日本国地図など多くの展示があった。
VR映像体験
博物館内でVR映像体験が出来る。今回は肉眼だけの映像見学。
上空から見たら全容が良くわかるが、見れないので映像で体験するようになっている。
映像を見ると天皇陵の成り立ち構造がより詳しく理解出来る。
「百舌鳥古墳群・時を越えて」と題して百舌鳥古墳群の説明を映像で見る。
3世紀に中国大陸の魏の国から倭国へ古墳造りが伝来する。
関西では、前方後円墳が築造される。それが日本各地に広まっていった。
比較することで、いかに大きいかが解る。
濠を掘って、その土を墳丘造成に使う。1日2000人、延べ680万人もの人が、15年と8か月を要したとする試算がある。
盛り土の流失を防ぎために、こぶし大の葺石で側面を石で覆った。
盛り土の稜線には円形埴輪が2万数千個並べられた。
出来た当時は、この様な外観だった。
石棺の周りに副葬品の甲冑がが置かれている。
以上で博物館の見学を終わる。
堺市役所展望階からの見学
博物館を見学の後に、バスで堺市役所に向かう。
最上階21階の展望階から仁徳天皇陵を斜め上から眺めるためです。
見晴らしの良い展望階。
地上80mの市役所最上階で、360度の展望が楽しめる回廊式ロビーです。仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をはじめ歴史を秘めた堺のまちが眼下に広がり、遠くは六甲山、あべのハルカス、生駒・金剛山等が見渡せます。
前方の森が仁徳天皇陵である。
忘年会
南海電車の堺東駅から新今宮駅に行き、歩いて忘年会の会場、フグ料理の「づぼらや」で行く。
鍋料理、てっちりの材料。(ふぐ料理)
私は、初めてだったが大阪近辺方たちは、小さいころから親に連れられ来ているとのことだった。大阪庶民の特別な料理といったところか。
飲んで香ばしいう「ひれ酒」です。
新年おめでとうございます。
返信削除仁徳天皇陵古墳のことがよくわかりました。古墳の規模、工法、出土品、博物館の展示品、堺市役所21階からの(その他の古墳群を含む)眺望、と多角的に多くの写真を使い詳細な説明でありがとうございました。当時の人々のスケールの大きさがわかります。素晴らしい小旅行でしたね。古墳とは別にしてこの投稿で感心した点が二つあります。(1)2005年の海外旅行のお仲間と2回/年、日帰り旅行を続けられているということです。なかなかできないことで素晴らしいです! (2)小旅行とはいえ今回は相当の距離を歩いたのではないでしょうか? 普段ゴルフで鍛えているimasanだから出来ることでしょうね。私はとてもこんなに歩くことができず、随分体力的に差があるな思いました。投稿有難うございました。
石井様 読んでいただき有難うございます。
削除15年ぐらい前にも天皇陵まで散策したことがあり、当時、建設大手の調査でピラミッドに匹敵するとレポートを読んだことがあります。
ただ、今回、再現ビデオで見た木の生えてない建設当時の外観は、ピラミッドと同様に相当な迫力があります。以前は、幾つかの竪穴式の住居のある再現広場がありました。周りに多くの集落があったのでしょう。
さて、旅行仲間とは、近畿各地の桜や紅葉の名所、奈良の古い町並みやお寺など多く行っています。ただ、最近は足は肉離れや股関節の傷みがあり、山歩きを控えています。
新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
返信削除仁徳天皇陵古墳の写真に刺激を受けて、歴史の勉強(「ネットサーフィン」)をしました。いくつかの記事がありましたが、次の二つの記事に注目しました。①「狗奴国(くなこく)私考」・・「十六代仁徳天皇(3)治世」より:「仁徳十一年天皇は群臣に、大規模な農地開発のための土木工事を行うよう詔をした。・・秦氏の技術指導のもとに陵墓を築いた」、②「CGS日本の歴史2-3」・・「古墳時代という嘘~実は墓ではなかった!?」より:「古墳はそもそも何のためにつくられたか?」・・「古墳は平地にあり、周りは田んぼであった。このことから仁徳天皇の時代の時に大規模な農地開拓が行われた。水田用の平地造成や灌漑用水路の築造が行われ、この時出た残土を盛り土とし、最終的には天皇陵とした」という説。
<感想>②の残土盛り土説には、一理あると思いました。また、①の農地開発に当たって、渡来人の「秦氏」が土木技術の面で貢献したという記述があり、かつて「秦氏」に関連するいくつかに本を興味深く読んだことを思い出しました。
考古学的には、仁徳天皇陵が、本当は誰の墓か分からないので、最近は地名から大仙古墳と呼ぶようになってきているそうです。
削除ただ、仁徳天皇陵と言うのは、「日本書紀』で「・・仁徳天皇67年10月5日が、仁徳天皇が河内の石津原(堺市堺区石津町付近)に行幸して自らの陵地を定め、陵を作りはじめた18日に鹿が野からあらわれて役民(労役に従う人々)のなかに入って倒れて死んで鹿の耳から百舌鳥が出てきた・・これを百舌鳥耳原という地名の起源とする」と書かれたことに由来するということです。宮内庁は天皇陵としています。
また、石棺が出て来ていますので、墓だったと思います。
堺市と宮内庁のこれからの発掘調査で色々な事が分かるでしょう。
渡来人秦氏は、朝鮮半島の百済から来ており、日本各地の土木工事を指導しています。
仁徳天皇陵近くの方が、小学校で、造営の専門家や各種の技術を持った人たちが大陸や半島から沢山やってきて作り上げたと習ったそうです。書かれた通り役割を担ったでしょう。歴史には、ミステリーが多いですね。
明けましておめでとうございます。新天皇の即位・世界遺産登録も行われてまだ1年にもならない最近、仁徳天皇陵見学は、まさにタイムリーで有意義な小旅行だったでしょうね。このレポートのお蔭で私も、その全貌に近い様子を知ることができました。日本人は小さいことも得意ですが、大きなこともできるということですね。キャデラックは作れても、コンパクトカーは作れない国があります。仁徳天皇と「民の竈の話」は有名で、1500年も前に天皇と民が「絶対君主と虐げられた民衆」という関係ではなかった。あるいは、そういう関係にしたくないという理想があったといことわけで、秦の始皇帝陵などとは、全く違いますよね。素晴らしいレポートありがとうございました。
返信削除読んでいただき有難うございます。仁徳天皇と「民の竈の話」良く知っておられましたね。
削除仁徳天皇が「高台に登って国を望むと、国内から煙が登っていない。思うに、民はもうまったく貧しく、炊飯できるほどの食料も家にないのではないかと言うことで、今より以後、三年に至るまで、全ての庸調(課税)、労役を免除し、民の苦しみを取り除くのだ」と宣った。いい話ですね。大きな古墳に葬られてしかるべき天皇でしたね。
新年あけましておめでとうございます。皆さんのコメントを読んでいるうちに「目」が疲れて、コメントするのも苦痛の時が有ります。困ったものです。石井さんのコメントにあるように、昔、海外を旅行した仲間と年に2回も旅行を続けているとのこと本当に貴重な時間ですね。たくさんの写真ありがとうございます、貴兄らしく詳しく解説頂き改めて歴史の勉強をしました。遠くて見に行けないのが残念です。
返信削除野尻様と同様に、私もパソコンでブログを書いたりテレビを見ると目が疲れます。
削除人様に理解してもらうには、まず、自分が理解できるようにと写真を並べてしまいました。
旅行仲間とは、上下関係などなしで、心置きなく話せるので長く続いています。