このブログに野尻さんが初めて「趣味の表装:掛け軸造り」と題して投稿をされました。その掛け軸には「至誠にして動かざる者未だこれ有らざるなり」という孟子の教えが漢字で書かれておりました。これは吉田松陰(敬称略)の座右の銘とのことです。そこで私は吉田松陰に関心を持ち、身近な下田の弁天島を探訪して「至誠(1)」として先に投稿しました。今回は「至誠」および「至誠にして・・・なり」について、吉田松陰とあわせて今少し調べてみました。
(ミナヨシ会員:石井旭)
上記オリジナルの投稿は2016年6月30日ですので、必要に応じそちらも参照ください。
DVDを用意して鑑賞しました。
大河ドラマ・総集編
「花燃ゆ」(前編)
①人むすぶ妹
②松下村塾を守れ
③妻のたたかい
「花燃ゆ」(後編)
①女たちの園
②いざ、群馬へ
③二人の再婚
「青天の夢」
松蔭と晋作新世紀への挑戦
「獄(ひとや)に咲く花」吉田松陰の恋
ドラマの最初
松蔭の妹、「ふみ」はまだ幼少であったが、その妹に向かって松陰は一生懸命、
「至誠にして動かざるは 未だこれ有らざるなり」と説いている。
ここにも「至誠」
松陰設立の松下村塾の塾生にもことあるごとに「至誠にして・・・・・・・・」
と説いている。
また野山獄に投獄されているとき松陰は一部の同志に自分の考えが理解されないと嘆き、壁板をたたきながら「至誠」と書いている。
以上は大河ドラマ「花燃ゆ」(前篇)からの抜粋である。
本で調べた。
図書館には吉田松陰に関する本が沢山あり、松陰の偉大さを伺い知ることができる。
そして九冊の本を借りた。もちろん全部の本を精読できないので、ひろい読みしながら「至誠にして・・・」の説明箇所を探した。
「吉田松陰」 川口雅昭 著 371頁より抜粋
(まとめ)
爛熟しきった権力志向の封建政治は崩壊の危機にあり、列強はわが国の植民地化を虎視耽々と画策していた。そのとき救国の行動をと吉田松陰は、松下村塾を建立して塾生と「激動の世にあって、人としてどう生きるべきか」を徹底考究した。しかしその熱情のあまり密航や老中の暗殺画策を
行うなど無謀と思われる行いをした。そして最終的には死罪となった。(享年30歳)
今ここで吉田松陰の詳細を論じることは控える。私は松陰が「至誠にして動かざる者未だこれ有らるなり」の言葉がどのような場面で使われたのか知りたかった。調べれば松陰は何回もこの言葉を使い、多少言い回しが異なることもあったが意味は同じである。解説として妥当と思うものを上に抜粋として掲げました。これは最後に江戸に送られるときに、松蔭の妹、寿の夫で松陰のよき理解者であった小田村伊之助宛てに書き送ったものである。
私がここで言いたいのは 野尻さんの書によって 吉田松陰のこと及び書の意味を少しばかり理解できたことです。一方「花燃ゆ」DVDを鑑賞して久しぶりに 心を揺さぶられる感動をおぼえました。
以上
野尻君の書の松陰の言葉を、花燃ゆを通してより現実的に理解された力作です。
返信削除目の付け所が素晴らしい。
至誠は、今の時代にも必要ですが、これが通る世、努力が報われる世でありたい。
この記事を見たとき、一瞬圧倒されました。よく取材しましたね。感想は、imasanのコメントと全く同じです。確かに着眼点が良いと思いました。私の経験では、現役のころ「誠」が社訓の一つで、先輩たちからよく教えられました。「誠」の心構えで仕事をすれば、問題ないと実感しています。
返信削除コメントしたのが公開されていないとのご指摘が有りました。記入して公開をクリックしたのですが? 「至誠」について詳しく調べていただきありがとうございます。図書館まで行って吉田松陰に関する記述を調べることなど小生には到底出来ないことです。
返信削除大河ドラマ「花燃ゆ」で楫取素彦が群馬県令として活躍されたと知り、幼いころから上毛かるたを覚えましたが、楫取素彦に関しては取り上げられていないので、彼に関する書籍を探したところ、一坂太郎著「楫取素彦と吉田松陰の妹・文」という本が見つかり読んでみました。その中に、吉田松陰が楫取への遺言とした書に関する記述が見つかり、掛け軸用に良い記述なので書にしました。内容は貴兄の記述通りです。野尻