寅次郎(吉田松陰)は安政六年(1859)十月五日江戸の評定所で最後の取り調べを受け、死罪の刑となりましたが、遺書ともいうべき「留魂録」に次のように書いております。
さて途中は省略して時代は明治となります。政府の木戸孝允、伊藤博文などは今後の日本には代表的な産業が必要と考えていた。そこで開国以来海外に飛ぶように売れていた絹糸に着眼、明治5年に製糸場を北関東の中心、群馬県の富岡に建設した。さらに木戸の要請で楫取素彦は群馬県の県令として、寿と美和を伴い3人で群馬県前橋に赴任したのです。
上右、下右:美和は字を読めない女性たちのために読み書きを勉強する「学びの場」を設立した。
下左:女性たちも美和の「女性でも勉強して、自分の考えを持つ」という考え方を理解した。
そして絹糸生産のかたわら一生懸命勉強をした。このことは後々大きな力となる。
時計回りに見ると、絹糸の生産方式は時間の経過とともに改善、進歩したことがわかる。
県令・楫取素彦は美和の協力とその意見も尊重して群馬県の発展に尽くした。
① 群馬県の養蚕、絹糸生産の発展のために尽し、群馬の絹糸のずば抜けた品質によって世界
への輸出も飛躍的に拡大した。
② 公立の女子学校を設立して、群馬県を日本で就学率、一位にした。
③ 富岡製糸場を政府から民間に払い下げるとき、引き受け手がなく閉鎖となりそうであったのを
政府と折衝して、その存続を決めさせた。
④ さらなる産業発展のために、政府に前橋までの鉄道敷設計画を決定させた。
そして楫取は自分の任務は終わった。あとは自分たちで出来ると考えてこの地を去る決心をする。
すでに妻(寿)に病死された楫取は美和に結婚を申し込み、これからも美和の協力を乞い、再婚したのである。
ほとんどがドラマ 「花燃ゆ」 からの抜粋であるが 我々ミナヨシ会の仲間の学びの地、学び舎がある群馬県を 「素晴らしい群馬」 と私は呼びたい。 この当時の抜きんでた養蚕、繊維産業の重要性を担って我々の学び舎に貴重な繊維学科と機械学科が後に設けられたと私は思います。
鋸屋根の街
桐生は、「糸一本から着物まで」の織物で栄え、「西の西陣」東の「桐生」と並び称されて、わが国有数の織物産地として知られていた。戦後の最盛期には500を超える工場が活況を呈していた。「なつかしの桐生」 Osima氏著より抜粋
(まとめ)
長くなりすみません。吉田松陰から端を発し、その見えない糸は群馬県にまで伸びて、もしかしたら(いや確かに)我々が学んだ地、学び舎、ミナヨシ会まで繋がっていると思います。これは考えすぎだろうか? (終わり)
通学で、八高線、両毛線に乗り、豊島様と前橋の群大まで通った時、車掌から見える風景は桑畑ばかりだった。住んでいた寄居の家の周りも桑畑で、通学は、その中の道を歩いてでした。学生の頃は、まだ、養蚕、繊維産業の盛んな時期でした。遠くて近い思い出です。
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