2017年5月20日土曜日

五月のバラ(改定版)

有名なバラ園はあちこちにあり珍しくもないかも知れません。車で30分ほどの河津町にも「河津バガテル公園」と言うバラ園があります。ちょうど見ごろとのことで行ってきました。ただ写真を並べただけのミニ投稿ですが閲覧いただければ幸いです。

        何はともあれ,写真を見てください。バラには名前がついてます。
    拡大してみたい場合は写真をクリックしてください。


 

オールドブラッシュ


コーラス

リオサンバ


プレジデントレオバルド

レデイビリドン


プリンセスドモナコ

オレンジバニー

桜貝


クッパーケニギン

ペネロペ


アンジェラ

ホワイトクリスマス


ジャルダンドフランス

エロチカ
 

ローズゴジャール

オードリーヘップバーン


マチルダ

ホワイトクリスマス


ホワイトクリスマス&ブルーライト

サンプラ


ヒバラ

ミスターリンカーン


プリンセスミチコ

ホワイトクイーンエリザベス


ダイアナ

ケベック


 
園内の様子をご覧になってください。
 

















 
                                                 公園全体の遠景を見てください。





      説明は省略させていただきます。詳細については下記参照ください。

河津バガテル公園  <====クリックしてください。

                                             以上(A.Ishii)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この投稿に対して大嶋さんから次のメールをいただきました。ここに追加掲載いたします。


 素晴らしいバラのお便り有り難うございました。
 高校時代の学舎は、バラの花で覆われていて校庭の一角には、色とりどりの
 バラの花が咲き誇る指月庭という瀟洒な庭がありました。校歌にも「バラの
 香におう学び舎」と謳われていました。
 参考までに添付資料を読んでいただければと思います。これを探すのに4日
 かかりました。野尻様も同じ高校なのでCc致しました。    大嶋

大嶋さんから頂いたままを追加掲載し、私個人の追加の記述は控えさせていただきます。
だだ、4日もかかってこの資料を探していただいた大嶋さんに深く感謝いたします。(A.Ishii)








 


2017年5月3日水曜日

黒船祭と一人の女性(改訂版)

黒船祭
私の郷里は伊豆の下田市であるが、現在私は車で1時間ほどの東伊豆町の熱川地区に住んでいます。先月野暮用で下田へ行ったとき、信号待ちで横を見たら「黒船祭」の案内板が目についた。そう、5月になると黒船祭が行われることを思い出しました。郷里を離れてから黒船祭のことをすっかり忘れていました。


黒船祭は、ペリー提督率いる米国海軍が黒船で来航したのが1854年。この後下田開港につくした内外の先賢の偉業をたたえ、併せて世界平和と国際親善に寄与するため、昭和9年(1934年)に始まったのがこの黒船祭です。とのことで今回で第76回とは長く続いたものだ。私が子供のころの初期の黒船祭は素朴なもので日米親善野球が最も大きなイベントであっが今では盛り沢山な催しがある。

下田・黒船祭     <==== 黒船祭の詳細はこちら

黒船来航当時の下田
ペリー提督が日本に来航したのが1854年、そして下田開港につくしたとのこと。実際は日本を支配下に置きたくて圧力をかけに来たものと思う。そして下田にも上陸して開港を迫ったのが実情だろう。4隻の黒い蒸気船が下田の沖に現れて上陸し、了仙寺まで凱旋したのだ。いずれにしても日米和親条約にもとづき下田は開港されました。そして少し遅れ1856年3月に駐日領事としてタウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺に領事館を構えたのである。数年のうちに小さな港町は米国の影響を大きく受けた。この時に一人の女性、斎藤きち(後のお吉)が現れたのである。

お吉の生涯
[下田一の芸者]
斎藤きち(後のお吉)は1841年愛知県に生まれ、4歳のとき一家で下田に移る。事情があって14歳で芸者となったがその美貌と才知で瞬く間に下田一の人気芸者となった。そしてお吉と名乗った。

[唐人お吉]
一方ハリスは玉泉寺の領事館で精力的に日米外交業務を行っていたが、体調を崩してしまった。そして日本人看護婦の斡旋を地元役人に依頼してきたのである。しかし、妾の斡旋と誤解して役人はお吉を選んだ。婚約者もいたお吉は強く固辞したが、役人の お国のためと 強硬な説得に負けてハリスのもとへ行ったのである。当時は日本女性が外国人の世話をしたりして親密になることは恥と考えていた人々はお吉に侮蔑の目を向けたのだ。ハリスの容態は回復して3ケ月後にはお吉は解放され再び芸者となったが人々の冷たい視線は変わらなかった。この頃からではないだろうか、唐人、唐人お吉と呼ばれるようになったのは!そして彼女は次第に酒に溺れていった。職を変えてみたがアルコール障害となって暴れたりした。その後数年間物乞いを続けた後、1890年3月27日豪雨の夜、濁流と化した稲生沢の門栗ケ淵(お吉ケ淵)に身を投げたのだ。引き上げられた遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、河川敷に3日間放置し、人々は死後もお吉に冷たくあたった。
注)現在は下田の宝福寺に弔われ、新渡戸稲造博士はお吉地蔵を建立されるなどして、お吉の理解者も現れた。

        
玉泉寺でハリスのお世話をするお吉。
(等身大の人形)




















お吉ケ淵
身も心もボロボロになり豪雨の夜、濁流渦巻く淵に身を投げようとするときのお吉さんの心を想像すると、大げさに言えば鳥肌がたつようだ。その投身自殺した場所はなんと私の郷里の家から2Kmの所であった。

             稀に訪れる人もいるようだ。人が立っている所が淵で想像に反して水深30cm弱で水面は鏡のようで何の変哲もない川でした。私がこの場所を訪れたのは1995年ですが、もう一度あの川面を見たいと思います。
 
 
     昔の淵は水量も多く恐ろしく見える。                お吉19歳
 
吉田松陰と唐人お吉
ペリーが下田沖に来航したときに、弁天島から密航を企てたのが吉田松陰である。時間的に少し遅れてハリスが柿崎の玉泉寺に領事館を構え、お吉がお世話のために行った。
吉田松陰の弁天島とお吉の玉泉寺は直線距離で250mしか離れていない。時間的なずれはお吉が14歳で芸妓になった時に、松陰は密航失敗し投獄され、お吉が19歳のときに松陰は処刑された。松陰とお吉は直接の因果関係はないが、海外から日本への圧力は強くそのうねりの中で、この狭い港町で2つの事柄が起こったと思う。
 
最後に
このように混沌とした時代に、あわよくば交渉ごとを有利に導こうとした役人からお国のためと説得されて「唐人」のもとにお吉は派遣されたのだ。お吉は感謝されて当然、それが「唐人お吉」と冷たい視線、軽蔑の目でみられひどいいじめにあったのだ。多分人々はお吉が置かれた立場を理解してあげることができなかったのだと思う。そのために思い違いが起こり人々は憎悪の目を向けたのだろう。そうしてお吉さんは悲しい生涯を送ったことに、私は何ともやりきれないし、納得できない。しかし、今の時代でも人の話を聞かず、相手の立場を理解しないために悲しい、不幸な出来事が起こっているのではないだろうか?松陰みたいな大志を抱いて行動した陰で、同じように生きたお吉さんを忘れることはできない。             以上 (A.Ishii)
 
註記)可能な限り簡単に記述しました。お吉さんに関する詳細を知りたい方はネットなどで調べてください。しかしはっきりしたことはなかなか分からず推測の部分もあります。何しろお吉さんの写真すら一枚あるかないかなのです。

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追記」・・・投稿後の展開

(1)投稿記事を読まれた野尻さんから次のコメントが寄せられた。

黒船祭と唐人お吉の話、そして皆さんのコメント大変興味深く読みました。黒船来航の記事で思い出すのは当時の幕府の役人で、ぺりーとの交渉に当ったのが「黒川嘉兵衛」という人物で、実はこの人は、私の姉の連れ合いで町田市に住んでいた「黒川清」(3年ほど前に他界)の曽祖父であることが判明しました。黒川嘉兵衛の「銀盤写真」が黒川家で発見され、町田ジャーナルに紹介されました。このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。別途関連写真をメールで送ります。


                     (拡大すれば読めます)

(2)黒川嘉兵衛さんのこと。(ネットで調べてみました。)

黒川嘉兵衛さんの経歴
嘉永6年(1853年浦賀奉行組頭として黒船来航に対処したのを皮切りに、翌嘉永7年(1854年)の再来航に際しても交渉事務を担当し、下田奉行組頭も歴任する。しかし安政5年(1858年)より始まった安政の大獄によって免職させられ、差控となった。
文久3年(1863年一橋家用人見習として取り立てられ、翌文久4年(1864年)には番頭兼用人となり、以後は一橋家家老平岡円四郎らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐した。慶応2年(1866年)にいったん失脚して一橋家を致仕したが、慶応4年(1868年)再び慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いに敗れて謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛している。晩年は京都で過ごした。下田奉行の頃、黒船に乗りこんで密航を企てた吉田松陰を尋問したことでも知られる。
嘉永7年(1854年)、マシュー・ペリーの配下の写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアによって撮影された黒川の銀板写真は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真の一枚として、2006年に重要文化財に指定された。(以上I/Net
 
黒川嘉兵衛さんは上記の如くすごい経歴の持ち主です。私は野尻さんの「このお役人が当時、ハリスにお吉を看護婦として送り込んで悲劇を生む元となった役人が黒川嘉兵衛かどうかは知りませんが、実にかなしい話です。」と言う点に的を絞り再調査しました。
実際にお吉さんを口説き、1857年にハリスの滞在する玉泉寺にお吉さんを派遣したのは下田奉行組頭の伊佐新次郎という人です。しかし、黒川嘉兵衛さんもこの頃下田奉行組頭を歴任されていたので、計画の相談にあずかったか否かは定かではありません。いずれにしても伊佐新次郎が実務者です。その証拠に伊佐新次郎は後年、お吉さんに悪いことをした。会って謝りたいとお吉さんを訪ね歩いたそうです。       以上 (A.Ishii)
 

2017年4月29日土曜日

4月の花

もうそろそろ4月も終わろうとしております。皆様おかわりありませんか?
私も膝が痛い、腕がしびれるなどと言いながらもなんとかやっております。

自分で花木を育てることもなく横着を決め込んでおります。ただ他所のきれいな花を見ればカメラを向けることもしばしばです。それにしても他所の花はひときわきれいに見えるから不思議。4月に撮影した中から何点か選んでみました。


ごみ集積場わきの水仙


麓 奈良本の桜



Mさん宅の山吹


Yさん宅のつつじ?  (花の名前分からず)


拙宅お隣の花もも


ご近所のシャクナゲ


行きつけの病院の草花


Kさん宅のつつじ

標高500Mの自宅からふもとの熱川まで買い物に行く途中で出会った4月の花です。どうと言うこともない投稿ですが、皆様へのご機嫌うかがいのつむりです。それではお元気で!  (A.Ishii)

2017年4月2日日曜日

 4月の投稿を担当しますが、あまり良いネタがないのですが、私の趣味の一部を紹介したいと思います。
 以前に紹介した掛け軸製作の基本である、作品の「表装:裏打ち」の技法と、掛け軸製作技法について簡単に紹介します。
1.作品の制作半切の画仙紙、全紙の和紙など作品に応じて選ぶ
  表装する場合、墨汁は使わず、墨を摺ります。

2.裏打ちの手順:作業道具、材料、手順 
  裏打ち紙は美濃紙(肌裏用)、美須紙(増裏用)、宇田紙(総   
裏用)の3種類を使用

3.作品を作業台にうつ伏せに載せ、噴霧器で湿りを与える。
4.あらかじめ練った糊を刷毛で裏打ち紙に塗り、掛け竹で持ち上げて本紙(作品)に裏打ち紙を打つ。

5.撫ぜ刷毛で、空気を抜きながら裏打ち紙を軽く撫ぜて、しわを無くす。シュロ刷毛でしっかりと裏打ち紙を作品に密着させる。
6.2~3日乾燥させてから、増裏紙を同様の方法で裏打ち推する。

7.裂地の裏打ち:裂地はそのままだとしわの原因になるので、裂地の両端に3cmほどの切り込みを入れて、自由度を与え、いったん湿らせて、乾燥後に裏打ちする。


8.裂地の裏打ちは、作品の裏打ちと同様であるが、糊は水で薄めず濃いままで使用する。
9.作品の化粧立ち:本紙(作品)の裏打ち紙のはみだし部分をカットする。作品に合わせて、長さ幅、直角度に注意して周囲をカットする。
10.裏打ちした裂地も作品と同じように、必要長さにカットします。
   裂地は、天地(掛け軸の上と下の部分)、柱(掛け軸の両端)、一文字(作品の上部と下部に  
   飾りとして付ける)の3つの部分で構成されます。
   最初に作品の上下に一文字を切り継ぎ(ボンドで作品と裂地を繋ぐ)します。
    次に作品の両端に柱を切り継ぎます。最後に天(上部)と地(下部)を一文字と柱を合わせて
   切り継ぎます。地の部分も同じです。
    この時裂地に模様のある場合は、柱と天地の模様が揃うように切り継ぎます。(ここの作業 
   が一番難しい)
11.上の写真で右端が本紙と一文字、柱、天地を切り継ぎしたものです。
12.整形、耳折り:天地と柱全体をバランスよくカット(柱の幅を決める)して、両端を約3ミリほどお
   ら側に折り曲げて、ボンドで接着する。(上図左)
13.総裏打ち:本紙と裂地を繋ぎ合わせた後、裏側全体に少し厚めの和紙(宇田紙)を張り付けて   
   全体を補強する。この作業の前に、軸袋(掛け軸の軸棒を包み込む部分)、八双袋(掛け軸の
   上部)を取り付けて置く。(下の写真:左八双袋、右軸袋)
14.乾燥、裏摺り、耳切:十分乾燥後、裏側全体にはロウを塗って、数珠で横に擦り、裏側を柔ら 
   かくします。これは掛け軸を巻いた時に、折れ曲がらないようにするための重要な工程です。
15.最後は軸と八双を取り付け、八双部に釻(かん:掛け緒を付ける部分)、を付け、掛け緒、巻緒
   を取り付けて完成です。
16.完成したら、自分が作成したものという意味で、落款印を押します。落款印も自分で篆刻で作
   成しました。
   以上くだらないものを紹介しましたが読み捨ててください。掛け軸道場に通って習得したものを
   マニュアル化して忘れないようにしています。











2017年3月18日土曜日

Hashikura君のメキシコ旅行とカルロス・ゴーン氏の私の履歴書

1.愛読・日本経済新聞の私の履歴書
我が家では、日本経済新聞をとっていて楽しみに読んでいるのが、最後のペーに掲載されている「私の履歴書」です。
興味が尽きない波乱に満ちた半生を綴ったニトリHD創業者・似鳥昭雄社長、誰もが認める仕事人・吉野家ホールディングスの安部 修仁会長 、対照的なゴルファーの岡本綾子氏、樋口久子氏と米国ゴルフ殿堂入りのトムワトソン氏、パリーでの華々しい成功と挫折も味わった
ファッションデザイナーの高田賢三氏、銀行マンと作詞作曲家の兼務をこなしたシンガーソングライターの小椋佳氏などワクワクしながら読んでいます。

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今年の1月からの筆者は、カルロス・ゴーンさんだった。
日産再生の記事を読み進むうちに、昨年9月に貰ったHashikura君からのメールに書いてあった11月上旬のメキシコ旅行(日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)を思い出した。

2.Hashikura君に投稿依頼
(Hashikura君からのメール)2016.09.19
連絡ありがとうございます。
・・・・・・・
私は落語を年2回ほど、新宿の末広亭に行き、楽しんでいます。
好きな落語家は人間国宝とも言われている柳家小三治(我々と同年令)です。話術の凄さはまさに神業で引き込まれます。
寄席には、上手な漫才師も出て来て、早いテンポで面白く、機知豊富で笑います。
さて、当方が今夢中になっているのは、TOEICのテスト(目標スコア700点以上)を年内に受けるべく楽しく勉強していることです。
あと、11月上旬メキシコ州に旅行(日産開発部門のOB会のツアー。日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)があります。
Hashikura
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(私からHashikura君へのメール)2017.01.24
現在、日経新聞にカルロス・ゴーンさんが私の履歴書を書いておられます。毎日読んでいます。
自分を誇示することなく、日産のリバイバルは、指示した方針に社員が成し遂げたと書いています。指導者としての大きさを感じます。
昨年、日産メキシコを訪問されましたが、日産の工場見学と再生について何かお知りのことを書いていただけたらと思います。
imasan
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(Hashikura君からのメール)2017.01.30
返答遅れてごめんなさい。いつも励まして頂きありがとうございます。
メキシコはトランプ騒動で大変ですが頑張って乗り切って欲しいと思ってます。
私の出会ったメキシコの人達はとても親日的でした。メキシコがとても好きになりました。
とりあえずブログには出しませんが添付の写真集でメキシコの報告をいたします。
いいテーマが思いついたらブログに挑戦したいと思ってます。
Hashikura

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今年の1月は、アメリカノトランプ大統領からメキシコへの激しい攻撃とも思える要求があり、今後の展開が分からず、記事を書くには難しい時期でした。



3.メキシコの写真(1)
送られてきた組み写真を見て。今まで知らなかったメキシコの活気を感じました。

4.メキシコの写真(2)
(Hashikura君からのメール)2017.02.14
今回追加分含めて適宜使って下さい。メコシコ日産開発部門見学の項などです。
丁度アメリカ大統領選のトランプ確定のテレビ映像はホテルで撮ったものです。
それと翌日の新聞スタンドの様子です。


5.メキシコの写真(3)
(Hashikura君からのメール)2017.03.07&08
メキシコの写真では古代遺跡テオテイワカンの絶景?の添付を忘れていました。写真送ります。
一緒に写ってる茶色のジャンパーを着ている人は群大工学部39年卒の保坂篤一郎さんです。
同じ開発部門にいました。

今年はカブト虫の幼虫が殆ど見つからず夏の昆虫講座は休講しようと思ってます。


Hashikura君、多くの写真と感動を有難う!
5.メキシコのこと 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 、その他からの抜粋です。
5-1.メキシコの概要
メキシコ合衆国、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。
首都はメキシコシティ。公用語はスペイン語。総人口は約1億3千万人(2016年現在)。スペイン語圏においては最も人口の多い国である。

メキシコでは、マヤやアステカ等の古代メソアメリカ文明、スペインを中心としたヨーロッパ文化、隣国アメリカの大きな影響力など、その激動の歴史を背景とした様々な要素を感じることができます。
5-2.メキシコの歴史
メキシコの歴史は、大きくは下記の5つの時期に大別されます。
1.紀元前~15世紀:マヤやアステカ等の様々なメソアメリカ文明の旺盛
2.16世紀
19世紀:約300年間に渡るスペインの植民地支配
3.19世紀:スペインからの独立と独立後の内政混乱、アメリカやフランスとの対外戦争の勃発
4.20世紀:独裁政権に対するメキシコ革命の勃発、石油等の豊富な資源を背景にした高度経済成長と2度の経済危機
5.21世紀:対米輸出を軸にした輸出・製造拠点としての注目度上昇



6.カルロス・ゴーン氏の私の履歴書について
以下の記事は、日産自動車ニュースルームの「カルロス・ゴーン氏 私の履歴書」から抜粋させて頂きまた。

カルロス・ゴーン氏が、会社人生で何をどうされてきたかの一端が窺い知れると思います。
お読み頂けたらと思います。

カルロス・ゴーン氏 2017-1-1 私の履歴書
第一章: 幼少~学生時代
「機内から」
東京・パリ…世界駆ける 多様性 私のアイデンティティー。
今、大西洋のどこかだ。高度は1万4千メートル。そう、出張のためブラジルに向かうコーポレートジェットの機内でこれを書いている。
まずは謹んで皆様に新年のご挨拶を申し上げたい。日本の最も晴れやかな日、元旦から私の半生を振り返る場所を与えていただき、感謝の気持ちでいっぱいだ。
私は通常、月の3分の1ずつを日本、フランス、第三国で過ごす。一日一日はどれも違っていて、特別だ。例えば、パリでの生活は東京とは違う。米国やロシア、中国、ブラジルにいる時も各国のスタイルに身を委ねる。
では、グローバル化の時代に大切なこととは何か。私は迷わず「アイデンティティーを失わずに多様性を受け入れることだ」と答えるだろう。多様性とアイデンティティー。それは私の人生を的確に言い表した言葉でもある。
祖父はレバノンからブラジルに渡った移民だ。私はブラジルで生まれたが、幼少期から高校まではレバノンで過ごし、大学はフランスだ。米国でも長く生活した。
私はブラジル人であることを忘れたことはない。昨年8月、五輪のあったリオデジャネイロに帰った。「リオではゴーンさん、別人ですね」という人もいる。もしかしたら本来の自分に戻れる場所がリオなのかもしれない。だが、レバノンの文化や歴史も大切だ。フランスも重要な国だ。
最も顕著なのが今だ。私は日本を代表する自動車メーカーで社長を務め、仏ルノーの会長でもある。1人の人間が文化の異なる2つの国の大企業でトップを務めるのは奇跡だ。だが、現実でもある。

「パリで大学へ」
17歳になると、待ち受けていたのは進路の選択だった。、母はフランスの大学を薦めた
大学入学資格試験のバカロレアに合格した。フランスに移ることになった。
受験のための準備校に2年間通わないといけなかった。2年の努力の結果、門は見事、開かれた。
理系の最高峰、エコール・ポリテクニークはフランス革命中の1794年に設立された国防省直轄の学校で、在学中はまだパリ市内にあった。驚いたのは給料がもらえたことだ。学校は国を挙げて若いエリートを教育し、国の発展と安定のために素養を身につけさせる。
卒業生に官僚や政治家が多いのもうなずけた。

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カルロス・ゴーン氏は、レバノン移民のブラジル人で、高校まではレバノンで学び、大学はパリーの理系の最高峰の大学で学んだ。
特筆すべきは、フランスは、カルロス・ゴーン氏は受け入れ教育の機会を与えたということである。imasan

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第二章: 社会人生活開始

「ミシュランへ」ヘッドハンターの電話 同期100人、26歳で工場長抜擢。
「ブラジル赴任」巨額負債を3年で再建 ストの組合とも直接対話。
「同業買収」
米国流の経営から刺激 「コストカッター」異名取る。
着任早々の仕事は同業大手、米ユニロイヤル・グッドリッチの買収をまとめることだった。
だが、問題は買収後だった。同社は古い設備を多く抱えており、生産能力の適正化が必要だった。
私は買収の合意に合わせ、3つの工場の閉鎖を発表した。風当たりは強かった。
その後、私について回る「コストカッター」の呼称が授けられたのは、この頃だった。

私はミシュラン、ユニロイヤル双方から最良の人材を集めて経営執行委員会をつくった。
やがて日産自動車に誕生する「クロスファンクショナルチーム」の原型である。

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最初に就職したタイヤメーカで、早くも、「チーム作り」と「コストカッター」で会社を再生させた。

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「ルノーへ」
「ナンバー2でいいのか」 18年つかえたミシュラン去る。

96年3月だった。一本の電話がかかってきた。「自動車メーカーに興味はありませんか」。
「ルノーがナンバー2を探しています。いずれトップの後継者になる人です」。
「君は候補者の1番上だ。少しでも早くルノーに来てほしい」とヘッドハンタ-のシュバイツァー氏は言った。
私は「よろしくお願いします」と答えた。
ルノーからのオファーを受けたのは、いつかトップになりたかったからではない。
新しいことを学び、挑戦したかったのだ。

以前から多くのサプライチェーンを巻き込む自動車事業に興味があった。
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第三章: ルノーの再生
「アウトサイダー」
ルノー 官僚体質にメス ベルギー工場閉鎖 抗議の嵐。

私はブラジルや米国の時と同様クロスファンクショナルチーム」をつくった
部門の厚い壁を壊し、風通しを良くして一緒に問題の解決にあたる状況をつくるわけだ。
97年3月に発表したのが「200億フラン削減計画」だった。社内に衝撃が走った。
計画にはやはり米国やブラジルと同様に数値目標を掲げ、期限を定めた。
部品の種類を減らし、単価を下げるのは部品メーカーにとってつらい作業だが、協力してくれたメーカーには取引する量を増やして報いた。
最大の難関がベルギーのビルボールド工場閉鎖だった。
だが、それでルノーはよみがえった。労使のもめ事も徐々に消えた。

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カルロス・ゴーン氏は、ルノーでも「クロスファンクショナルチーム」を作り、コスト削減を数値目標と期限を定め成功に導いた。
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「提携交渉」
他社との統合や提携を考える時が来た。

本命は最初から日産、ルノーの「200億フラン削減計画」説明。
日産は当時、救世主を求めていた。業績は過去10年で1回しか黒字になっていなかった。
当時の塙義一社長はすでにダイムラークライスラーやフォード・モーターと出資を巡る交渉を始めており、ルノーは後じんを拝していた。ルノーの交渉チームは最初から日産に的を絞り、精力的に日本に足を運んだ。いい感触があった。
根気よく粘ったのは正解だった。99年3月、ダイムラーのユルゲン・シュレンプ会長は「この案件からすべて手を引く」と言い残して東京を後にした。
私はジュネーブでそれを聞いた。気がつけば、我々は交渉で土俵に残った唯一のプレーヤーだった。まさに青天の霹靂。
一昨年12月に亡くなった塙さんは後にこう教えてくれた。「ルノーと提携したら、ゴーンさんを送ってもらえるように頼もうと思ったのは、あの時だよ」シュバイツァー会長はある日、「送る人間は君しかいない」と私に告げた。

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第四章: 日産の再生
「日産へ」
異質な人同士 心一つに ルノーから管理職 溶け込む努力。

私は、日本での生活もいずれ私の人生の一部になると確信していた。だから溶け込みたいと思った。もちろん、妥協するつもりもなかった。
ルノーから幹部や管理職クラスが日本に到着しつつあった。

人選で重視したのは熱意と、開かれた精神の持ち主かどうかだった。
日本に着いたら植民地を支配するように振る舞いそうな人はふさわしくなかった。

必要としたのは、日産の人々と一緒になって問題解決に当たれる人材だった。
日産ニュースリリース記事より

「再生計画」
2年で20%コスト削減 10人10チーム 数字に裏付け。

日産自動車の再生計画は社員が自ら作ったものだった。
各部門から集められた中間管理職の「クロスファンクショナルチーム」(CFT)が中心を担った。
1チームは10人。購買、生産、財務など10のチームに分かれ、詳細を詰めていった。
CFTは私の経営手法の中心をなし、それまでにも他の企業で経営課題をいくつも解決してきた実績があった。私も各チームの議論に加わった。中でも思い出すのは購買だ。

日産の車はルノーに比べて20%も高く部品を買っていた。
高級品を使っていたわけではない。取引していた部品メーカーがあまりにも多く、規模の経済を生かせていなかった。

日産は絶望的な状況にあった。国内シェアは26年も下降線をたどり、1999年まで8年間に7回も営業赤字を計上した。
有利子負債は2兆円を超え、新型車を出せる状況ではなかった。
なぜか。1つは利益を大切にしてこなかったからだ。99年当時を振り返ると、日産は43種類の車を売っていたが、黒字を出していたのはわずかに4車種だった。

NRPでは5つの工場を閉鎖し、従業員を15万人から2万人減らしたが、再生後は世界中で15の工場を新設した。
従業員数も24万5千人と2倍近くに拡大した。財務では2兆円あった有利子負債が減り、手元資金がそれを大きく上回る状態になった。


日産は売上高営業利益率を4.5%にし、有利子負債を7千億円以下に減らす、などの公約を02年3月期に1年前倒しで達成した。「V字回復」といわれた。

更に先を読みたい方は、日産自動車ニュースリリースの記事をお読みください。
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私が抱いていた漠然としたカルロス・ゴーンさんのイメージとは違い、履歴書を読んで尊敬の念を抱きました。また、ゴーンさんだから出来た日産再生を理解した。
長い記事をお読み頂き有難うございました。 imasan
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2017年3月3日金曜日

学校で経験したことが役立った「ある方法」とは          ・・・・・・   imasan

1.今回のテーマはどんなこと?
一般的に、学校で習ったことが、社会へ出で直ぐには役立たないと言われている。
私の経験したことであるが、大学の卒業研究の実験で使ったある方法が入社3年目で役立った例を紹介したいと思います。



2.卒業研究のテーマとその方法
私が所属した研究所の卒研のテーマは「ジェットポンプの研究」です。
そのテーマを選んだ理由は、ただ、ポンプメーカに入りたいとの希望があっただけのことでした。

思い出すのは、その卒業研究結果の発表の時、Watanabe君が説明を始めた最初の段階で、町田教授より発言がありました。「毎年、毎年同じテーマの研究で進歩がない。他のテーマを選んではどうか」と言う提言でした。
一瞬、何故この段階でと唖然としたが、それに怯まず、Watanabe君が発表を続けてくれました。


卒研を発表するWatanabe君
さて、この研究では、吸い込み口の口径、先端ノズルの形状と位置などパラメータが多く、全ての組み合わせで実験するには時間がかかります。
それで使ったある方法」とは、統計学の「直行配列表を使った実験計画法でした。
研究室の本棚に何冊かの本があるのに気付き、自然と使った記憶があります。


吸い込み口

サイズの違うノズル
3.学校で使ったことが役立ったこと
学校を卒業し会社に入社し、繊維機械の自動ワインダー製造部門の生産技術係に配属された。
その3年目の昭和40年4月、上司から中央研究所に「硫酸浴による硬質アルマイトの研究」を依頼しているが、目標の硬さが得られていないので、研究に加わるように言われた。
それが、出来ないとKaneboさんに自動ワインダーを買ってもらえないのだと言う説明だった。
その理由は、これまでアルミの鋳物に硬質Crメッキした綾振りドラムを使っていたが、メッキが溝底にはつかず、アルミ地と糸が擦れて染色に悪いという理由からでした。
一方、硬質アルマイト処理したドラムは、溝底まで均一にアルマイト層がつきます。

この研究の目的を聞いて、卒業研究で経験した実験計画法を使ってテストする事が最適と判断し提案した。
その理由は、「何が、硬度に影響を与える主因子かをいち早く見出せると思ったからである。
その後、上司と研究者の許可を得て、具体的に硬質アルマイト処理の4つの因子をあげて、それぞれ2水準の実験条件を決め、直行配列表を使った実験計画を立てた。


実際の実験計画
その実験を行い、データを分散分析した結果、硬度に大きな効果のある因子が電流密度であることを見出すことが出来た。
主要因が判明したので、他の条件との組み合わせ第2回目の実験をした結果、目標の硬さ
を得ることの出来る処理条件が見いだされた。

実験の解析結果
その結果、幸いにもKaneboさんから初めて自動ワインダーを受注することが出来た。
受注した最初の1台分は、1度に2個しか出来ない小さな実験装置でアルマイト加工した。


表面が黒い色が硬質アルマイト加工したドラムです
この経験から、諸条件を2個の処理からを26個分へのスケールアップ設計をすることで、設備が完成した。素人私が出来たのは、その方法が考え方の道筋をつけてくれたのだと思います。


ただ、残念ではあるが、アルマイトの設備が出来てから6年ほどで、繊維機械から撤退した。
以来、その後の趨勢が分からないままだった。



4.何故こんな話を今?
今年、町内会のゴルフクラブの新年会で隣に座った方から、何処の会社にお勤めか聞かれた。
会社の名前を答えると、御社からいろいろな部署のアルマイト処理をさせてもらい儲けさせてもらっていると言われた。
この「アルマイト」と言う言葉を聞いて、50年前の硬質アルマイトに関する様々なことが蘇ってきたからです。何か熱いものを感じました。それが今回のテーマです。



5.50年前の設備はどうなっているだろうか?
硬質アルマイト加工設備は、綾振りドラム製造専門メーカの要望でそこの建屋に設置した。
その工場がどうなっているのか気になって、恐る恐るメールを送ってみた。

すると下記の返信が届いた
本日は、私共の事を想い出して頂きまして、お便りを下さり、誠に 嬉しく 有難うございます。
お名前は、よく父から、“開発から、製品まで、○○さんのお陰で出来たんや”と、いつも感謝して、皆に話して聞かせておりましたので、記憶しております。
おかげさまで、今も、ワインダー用のドラムを造らせて頂いております。
設備・建屋とも古くはなっておりますが、今だ、機能は充分に発揮して、アルマイト処理を続けさせて頂いております

と懐かしい心温まる内容だった。返信の言葉に心が動いて、先月24日に大阪八尾にある工場を訪問し、硬質アルマイト処理工場内を見せて頂いた。(下の写真)

当初より少し大きくされた処理槽

担当の方の話で、今も当初と全く同じ条件で硬質アルマイト処理を週2回されているとのことだった。アルマイト加工された素晴らしい製品と工場の皆様と話が出来に感激した次第です。

現在は、アルマイト加工ドラムの時代から球状黒鉛鋳鉄にイオン窒化処理したドラムに変わってきているそうだ。
しかし、硬質硫酸アルマイト加工の条件は変わっていなく、国内の多くの所で行われている。



これ、偏に「実験計画法」のお陰、いや、「ジェットポンプの研究」のお陰である。何をどう使うかのアイデアがあれば、学んだことを生かせると思う。

2017年1月17日火曜日

趣味の木工作品

 新年にふさわしい書の作品がないので、代わりに小生の別の趣味の一端を紹介します。
父の遺品の大工道具一式を、兄弟の中で私が全部引き取り、趣味の木工作品造りに活用しています。これまでに造ったいくつかの作品を紹介します。これらの作品は今も実用に供して使っています。
①は我が家の庭にあった古木を使って、ドリルとノミで、根気よくくり貫いて、割れ目は同じ材料を接着して塞ぎ、見栄えをよくしました。
④ホームセンターで端材を購入し、ノミとカンナを使って加工したものを、木工ボンドで接着して仕上げました。表面は木の肌を生かして、地のままです。
②小型のテーブルがほしいというので、家具店を探したが適当のものがなく、既製品と端材を使って自作しました。今も使っています。
以上趣味の一端を紹介しました。


2017年1月1日日曜日

新年のご挨拶

 
 
 
私は非常にあたたかく風もなく静かな好天の中、新年を迎えました。目の前の相模灘も穏やかな表情を見せており早朝から小舟をやさしく浮かべている様に見えます。庭に出て見ると気にも留めなかった木瓜が咲いておりました。
               伊豆の片田舎に咲いた木瓜の花(2017-1-1早朝)
 
 
元旦の朝食の時いただいたお屠蘇が少しまわりすぎ、衝動的に読んだ句を3首掲載。
 
                  * 元旦の お節とりわけ 妻にだす
  
                  * 穏やかな 元旦の朝の 庭の木瓜
            
                  * 飲みすぎて 少し反省 お屠蘇かな
 
私はこのような状況で元旦を迎えましたが、皆さんはいかがでしたでしょうか?        
 
 
 
 


さて、ブログ 「ミナヨシ会の仲間たち」は昨年5月に開設され、新しい年を迎えて2年目になりました。準備段階のいきさつは別にして、開設してみると 5月 に2件であった投稿が 6月には15件、そして12月までの投稿の累計は実に45件を数え順調に推移しております。これも類い稀なるIT知識を駆使してのimasanのサポート、およびToyoshimaさんの強力な後押しのお蔭です。並々ならぬご苦労があったことは確かで、心から感謝する次第です。
 
最初はミナヨシ会員の現況報告の場くらいに考えておりました。しかし実際の投稿内容は確かな行動に裏付けされた地域社会へのボランテイアー活動、長年継続努力された高尚な趣味、その他優れた考察、などがブログで披露されたのです。机を並べた学友がこのような素晴らしい、有意義な時間を過ごされていることを誇りに思います。
 
昨年の桐生での同窓会の様子も投稿されております。写真を拝見すると旧交をあたため楽しそうです。しかし同窓会では限られた時間内で個人個人の詳細な活動や趣味など踏み込んだお話は聞けないし、また出来ないのではないでしょうか? その辺をブログは十分補完できるものと信じます。何時という時間制限もありませんし、記事の長さ制限もありません。 好きな時に好きなように記載すればよいのです。
 
半年の経験からブログ「ミナヨシ会の仲間たち」は非常に面白く、誰かの記事にコメントが別の人からあります。さらにコメントで活発な情報交換が行われ、あたかもそばで膝を突き合わせて話しているような錯覚になるから不思議です。このような交流が無理なく自然にできます。 肩に力が入りすぎ、どうかすると長々と書きたくなることもありますが、本当にごく簡単な記事で結構で、それからだんだんお互いに会話が始まります。
 
このブログはミナヨシ会員であれば誰でも投稿できる共同運営型、ミナヨシ会員への限定公開のブログです。現在のところ記事を自分で書く方は4名、原稿の形で寄稿される方が3名です。その他にブログを読んでくださるミナヨシ会員が何人かおられますが詳細は分かりません。希望としてミナヨシ会員の多くの方々にこのブログへ投稿をしていただきたいのです。それが無理ならば読者になっていただきたく切にお願いする次第です。
 
 
以上新年のご挨拶かたがた、普段感じていること及びお願いを書きました。 今後このブログがいつまでも末永く運営されることを願っております。       (石井)