2017年4月2日日曜日

 4月の投稿を担当しますが、あまり良いネタがないのですが、私の趣味の一部を紹介したいと思います。
 以前に紹介した掛け軸製作の基本である、作品の「表装:裏打ち」の技法と、掛け軸製作技法について簡単に紹介します。
1.作品の制作半切の画仙紙、全紙の和紙など作品に応じて選ぶ
  表装する場合、墨汁は使わず、墨を摺ります。

2.裏打ちの手順:作業道具、材料、手順 
  裏打ち紙は美濃紙(肌裏用)、美須紙(増裏用)、宇田紙(総   
裏用)の3種類を使用

3.作品を作業台にうつ伏せに載せ、噴霧器で湿りを与える。
4.あらかじめ練った糊を刷毛で裏打ち紙に塗り、掛け竹で持ち上げて本紙(作品)に裏打ち紙を打つ。

5.撫ぜ刷毛で、空気を抜きながら裏打ち紙を軽く撫ぜて、しわを無くす。シュロ刷毛でしっかりと裏打ち紙を作品に密着させる。
6.2~3日乾燥させてから、増裏紙を同様の方法で裏打ち推する。

7.裂地の裏打ち:裂地はそのままだとしわの原因になるので、裂地の両端に3cmほどの切り込みを入れて、自由度を与え、いったん湿らせて、乾燥後に裏打ちする。


8.裂地の裏打ちは、作品の裏打ちと同様であるが、糊は水で薄めず濃いままで使用する。
9.作品の化粧立ち:本紙(作品)の裏打ち紙のはみだし部分をカットする。作品に合わせて、長さ幅、直角度に注意して周囲をカットする。
10.裏打ちした裂地も作品と同じように、必要長さにカットします。
   裂地は、天地(掛け軸の上と下の部分)、柱(掛け軸の両端)、一文字(作品の上部と下部に  
   飾りとして付ける)の3つの部分で構成されます。
   最初に作品の上下に一文字を切り継ぎ(ボンドで作品と裂地を繋ぐ)します。
    次に作品の両端に柱を切り継ぎます。最後に天(上部)と地(下部)を一文字と柱を合わせて
   切り継ぎます。地の部分も同じです。
    この時裂地に模様のある場合は、柱と天地の模様が揃うように切り継ぎます。(ここの作業 
   が一番難しい)
11.上の写真で右端が本紙と一文字、柱、天地を切り継ぎしたものです。
12.整形、耳折り:天地と柱全体をバランスよくカット(柱の幅を決める)して、両端を約3ミリほどお
   ら側に折り曲げて、ボンドで接着する。(上図左)
13.総裏打ち:本紙と裂地を繋ぎ合わせた後、裏側全体に少し厚めの和紙(宇田紙)を張り付けて   
   全体を補強する。この作業の前に、軸袋(掛け軸の軸棒を包み込む部分)、八双袋(掛け軸の
   上部)を取り付けて置く。(下の写真:左八双袋、右軸袋)
14.乾燥、裏摺り、耳切:十分乾燥後、裏側全体にはロウを塗って、数珠で横に擦り、裏側を柔ら 
   かくします。これは掛け軸を巻いた時に、折れ曲がらないようにするための重要な工程です。
15.最後は軸と八双を取り付け、八双部に釻(かん:掛け緒を付ける部分)、を付け、掛け緒、巻緒
   を取り付けて完成です。
16.完成したら、自分が作成したものという意味で、落款印を押します。落款印も自分で篆刻で作
   成しました。
   以上くだらないものを紹介しましたが読み捨ててください。掛け軸道場に通って習得したものを
   マニュアル化して忘れないようにしています。











2017年3月18日土曜日

Hashikura君のメキシコ旅行とカルロス・ゴーン氏の私の履歴書

1.愛読・日本経済新聞の私の履歴書
我が家では、日本経済新聞をとっていて楽しみに読んでいるのが、最後のペーに掲載されている「私の履歴書」です。
興味が尽きない波乱に満ちた半生を綴ったニトリHD創業者・似鳥昭雄社長、誰もが認める仕事人・吉野家ホールディングスの安部 修仁会長 、対照的なゴルファーの岡本綾子氏、樋口久子氏と米国ゴルフ殿堂入りのトムワトソン氏、パリーでの華々しい成功と挫折も味わった
ファッションデザイナーの高田賢三氏、銀行マンと作詞作曲家の兼務をこなしたシンガーソングライターの小椋佳氏などワクワクしながら読んでいます。

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今年の1月からの筆者は、カルロス・ゴーンさんだった。
日産再生の記事を読み進むうちに、昨年9月に貰ったHashikura君からのメールに書いてあった11月上旬のメキシコ旅行(日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)を思い出した。

2.Hashikura君に投稿依頼
(Hashikura君からのメール)2016.09.19
連絡ありがとうございます。
・・・・・・・
私は落語を年2回ほど、新宿の末広亭に行き、楽しんでいます。
好きな落語家は人間国宝とも言われている柳家小三治(我々と同年令)です。話術の凄さはまさに神業で引き込まれます。
寄席には、上手な漫才師も出て来て、早いテンポで面白く、機知豊富で笑います。
さて、当方が今夢中になっているのは、TOEICのテスト(目標スコア700点以上)を年内に受けるべく楽しく勉強していることです。
あと、11月上旬メキシコ州に旅行(日産開発部門のOB会のツアー。日産メキシコ開発拠点見学と世界遺産観光)があります。
Hashikura
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(私からHashikura君へのメール)2017.01.24
現在、日経新聞にカルロス・ゴーンさんが私の履歴書を書いておられます。毎日読んでいます。
自分を誇示することなく、日産のリバイバルは、指示した方針に社員が成し遂げたと書いています。指導者としての大きさを感じます。
昨年、日産メキシコを訪問されましたが、日産の工場見学と再生について何かお知りのことを書いていただけたらと思います。
imasan
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(Hashikura君からのメール)2017.01.30
返答遅れてごめんなさい。いつも励まして頂きありがとうございます。
メキシコはトランプ騒動で大変ですが頑張って乗り切って欲しいと思ってます。
私の出会ったメキシコの人達はとても親日的でした。メキシコがとても好きになりました。
とりあえずブログには出しませんが添付の写真集でメキシコの報告をいたします。
いいテーマが思いついたらブログに挑戦したいと思ってます。
Hashikura

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今年の1月は、アメリカノトランプ大統領からメキシコへの激しい攻撃とも思える要求があり、今後の展開が分からず、記事を書くには難しい時期でした。



3.メキシコの写真(1)
送られてきた組み写真を見て。今まで知らなかったメキシコの活気を感じました。

4.メキシコの写真(2)
(Hashikura君からのメール)2017.02.14
今回追加分含めて適宜使って下さい。メコシコ日産開発部門見学の項などです。
丁度アメリカ大統領選のトランプ確定のテレビ映像はホテルで撮ったものです。
それと翌日の新聞スタンドの様子です。


5.メキシコの写真(3)
(Hashikura君からのメール)2017.03.07&08
メキシコの写真では古代遺跡テオテイワカンの絶景?の添付を忘れていました。写真送ります。
一緒に写ってる茶色のジャンパーを着ている人は群大工学部39年卒の保坂篤一郎さんです。
同じ開発部門にいました。

今年はカブト虫の幼虫が殆ど見つからず夏の昆虫講座は休講しようと思ってます。


Hashikura君、多くの写真と感動を有難う!
5.メキシコのこと 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 、その他からの抜粋です。
5-1.メキシコの概要
メキシコ合衆国、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。
首都はメキシコシティ。公用語はスペイン語。総人口は約1億3千万人(2016年現在)。スペイン語圏においては最も人口の多い国である。

メキシコでは、マヤやアステカ等の古代メソアメリカ文明、スペインを中心としたヨーロッパ文化、隣国アメリカの大きな影響力など、その激動の歴史を背景とした様々な要素を感じることができます。
5-2.メキシコの歴史
メキシコの歴史は、大きくは下記の5つの時期に大別されます。
1.紀元前~15世紀:マヤやアステカ等の様々なメソアメリカ文明の旺盛
2.16世紀
19世紀:約300年間に渡るスペインの植民地支配
3.19世紀:スペインからの独立と独立後の内政混乱、アメリカやフランスとの対外戦争の勃発
4.20世紀:独裁政権に対するメキシコ革命の勃発、石油等の豊富な資源を背景にした高度経済成長と2度の経済危機
5.21世紀:対米輸出を軸にした輸出・製造拠点としての注目度上昇



6.カルロス・ゴーン氏の私の履歴書について
以下の記事は、日産自動車ニュースルームの「カルロス・ゴーン氏 私の履歴書」から抜粋させて頂きまた。

カルロス・ゴーン氏が、会社人生で何をどうされてきたかの一端が窺い知れると思います。
お読み頂けたらと思います。

カルロス・ゴーン氏 2017-1-1 私の履歴書
第一章: 幼少~学生時代
「機内から」
東京・パリ…世界駆ける 多様性 私のアイデンティティー。
今、大西洋のどこかだ。高度は1万4千メートル。そう、出張のためブラジルに向かうコーポレートジェットの機内でこれを書いている。
まずは謹んで皆様に新年のご挨拶を申し上げたい。日本の最も晴れやかな日、元旦から私の半生を振り返る場所を与えていただき、感謝の気持ちでいっぱいだ。
私は通常、月の3分の1ずつを日本、フランス、第三国で過ごす。一日一日はどれも違っていて、特別だ。例えば、パリでの生活は東京とは違う。米国やロシア、中国、ブラジルにいる時も各国のスタイルに身を委ねる。
では、グローバル化の時代に大切なこととは何か。私は迷わず「アイデンティティーを失わずに多様性を受け入れることだ」と答えるだろう。多様性とアイデンティティー。それは私の人生を的確に言い表した言葉でもある。
祖父はレバノンからブラジルに渡った移民だ。私はブラジルで生まれたが、幼少期から高校まではレバノンで過ごし、大学はフランスだ。米国でも長く生活した。
私はブラジル人であることを忘れたことはない。昨年8月、五輪のあったリオデジャネイロに帰った。「リオではゴーンさん、別人ですね」という人もいる。もしかしたら本来の自分に戻れる場所がリオなのかもしれない。だが、レバノンの文化や歴史も大切だ。フランスも重要な国だ。
最も顕著なのが今だ。私は日本を代表する自動車メーカーで社長を務め、仏ルノーの会長でもある。1人の人間が文化の異なる2つの国の大企業でトップを務めるのは奇跡だ。だが、現実でもある。

「パリで大学へ」
17歳になると、待ち受けていたのは進路の選択だった。、母はフランスの大学を薦めた
大学入学資格試験のバカロレアに合格した。フランスに移ることになった。
受験のための準備校に2年間通わないといけなかった。2年の努力の結果、門は見事、開かれた。
理系の最高峰、エコール・ポリテクニークはフランス革命中の1794年に設立された国防省直轄の学校で、在学中はまだパリ市内にあった。驚いたのは給料がもらえたことだ。学校は国を挙げて若いエリートを教育し、国の発展と安定のために素養を身につけさせる。
卒業生に官僚や政治家が多いのもうなずけた。

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カルロス・ゴーン氏は、レバノン移民のブラジル人で、高校まではレバノンで学び、大学はパリーの理系の最高峰の大学で学んだ。
特筆すべきは、フランスは、カルロス・ゴーン氏は受け入れ教育の機会を与えたということである。imasan

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第二章: 社会人生活開始

「ミシュランへ」ヘッドハンターの電話 同期100人、26歳で工場長抜擢。
「ブラジル赴任」巨額負債を3年で再建 ストの組合とも直接対話。
「同業買収」
米国流の経営から刺激 「コストカッター」異名取る。
着任早々の仕事は同業大手、米ユニロイヤル・グッドリッチの買収をまとめることだった。
だが、問題は買収後だった。同社は古い設備を多く抱えており、生産能力の適正化が必要だった。
私は買収の合意に合わせ、3つの工場の閉鎖を発表した。風当たりは強かった。
その後、私について回る「コストカッター」の呼称が授けられたのは、この頃だった。

私はミシュラン、ユニロイヤル双方から最良の人材を集めて経営執行委員会をつくった。
やがて日産自動車に誕生する「クロスファンクショナルチーム」の原型である。

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最初に就職したタイヤメーカで、早くも、「チーム作り」と「コストカッター」で会社を再生させた。

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「ルノーへ」
「ナンバー2でいいのか」 18年つかえたミシュラン去る。

96年3月だった。一本の電話がかかってきた。「自動車メーカーに興味はありませんか」。
「ルノーがナンバー2を探しています。いずれトップの後継者になる人です」。
「君は候補者の1番上だ。少しでも早くルノーに来てほしい」とヘッドハンタ-のシュバイツァー氏は言った。
私は「よろしくお願いします」と答えた。
ルノーからのオファーを受けたのは、いつかトップになりたかったからではない。
新しいことを学び、挑戦したかったのだ。

以前から多くのサプライチェーンを巻き込む自動車事業に興味があった。
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第三章: ルノーの再生
「アウトサイダー」
ルノー 官僚体質にメス ベルギー工場閉鎖 抗議の嵐。

私はブラジルや米国の時と同様クロスファンクショナルチーム」をつくった
部門の厚い壁を壊し、風通しを良くして一緒に問題の解決にあたる状況をつくるわけだ。
97年3月に発表したのが「200億フラン削減計画」だった。社内に衝撃が走った。
計画にはやはり米国やブラジルと同様に数値目標を掲げ、期限を定めた。
部品の種類を減らし、単価を下げるのは部品メーカーにとってつらい作業だが、協力してくれたメーカーには取引する量を増やして報いた。
最大の難関がベルギーのビルボールド工場閉鎖だった。
だが、それでルノーはよみがえった。労使のもめ事も徐々に消えた。

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カルロス・ゴーン氏は、ルノーでも「クロスファンクショナルチーム」を作り、コスト削減を数値目標と期限を定め成功に導いた。
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「提携交渉」
他社との統合や提携を考える時が来た。

本命は最初から日産、ルノーの「200億フラン削減計画」説明。
日産は当時、救世主を求めていた。業績は過去10年で1回しか黒字になっていなかった。
当時の塙義一社長はすでにダイムラークライスラーやフォード・モーターと出資を巡る交渉を始めており、ルノーは後じんを拝していた。ルノーの交渉チームは最初から日産に的を絞り、精力的に日本に足を運んだ。いい感触があった。
根気よく粘ったのは正解だった。99年3月、ダイムラーのユルゲン・シュレンプ会長は「この案件からすべて手を引く」と言い残して東京を後にした。
私はジュネーブでそれを聞いた。気がつけば、我々は交渉で土俵に残った唯一のプレーヤーだった。まさに青天の霹靂。
一昨年12月に亡くなった塙さんは後にこう教えてくれた。「ルノーと提携したら、ゴーンさんを送ってもらえるように頼もうと思ったのは、あの時だよ」シュバイツァー会長はある日、「送る人間は君しかいない」と私に告げた。

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第四章: 日産の再生
「日産へ」
異質な人同士 心一つに ルノーから管理職 溶け込む努力。

私は、日本での生活もいずれ私の人生の一部になると確信していた。だから溶け込みたいと思った。もちろん、妥協するつもりもなかった。
ルノーから幹部や管理職クラスが日本に到着しつつあった。

人選で重視したのは熱意と、開かれた精神の持ち主かどうかだった。
日本に着いたら植民地を支配するように振る舞いそうな人はふさわしくなかった。

必要としたのは、日産の人々と一緒になって問題解決に当たれる人材だった。
日産ニュースリリース記事より

「再生計画」
2年で20%コスト削減 10人10チーム 数字に裏付け。

日産自動車の再生計画は社員が自ら作ったものだった。
各部門から集められた中間管理職の「クロスファンクショナルチーム」(CFT)が中心を担った。
1チームは10人。購買、生産、財務など10のチームに分かれ、詳細を詰めていった。
CFTは私の経営手法の中心をなし、それまでにも他の企業で経営課題をいくつも解決してきた実績があった。私も各チームの議論に加わった。中でも思い出すのは購買だ。

日産の車はルノーに比べて20%も高く部品を買っていた。
高級品を使っていたわけではない。取引していた部品メーカーがあまりにも多く、規模の経済を生かせていなかった。

日産は絶望的な状況にあった。国内シェアは26年も下降線をたどり、1999年まで8年間に7回も営業赤字を計上した。
有利子負債は2兆円を超え、新型車を出せる状況ではなかった。
なぜか。1つは利益を大切にしてこなかったからだ。99年当時を振り返ると、日産は43種類の車を売っていたが、黒字を出していたのはわずかに4車種だった。

NRPでは5つの工場を閉鎖し、従業員を15万人から2万人減らしたが、再生後は世界中で15の工場を新設した。
従業員数も24万5千人と2倍近くに拡大した。財務では2兆円あった有利子負債が減り、手元資金がそれを大きく上回る状態になった。


日産は売上高営業利益率を4.5%にし、有利子負債を7千億円以下に減らす、などの公約を02年3月期に1年前倒しで達成した。「V字回復」といわれた。

更に先を読みたい方は、日産自動車ニュースリリースの記事をお読みください。
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私が抱いていた漠然としたカルロス・ゴーンさんのイメージとは違い、履歴書を読んで尊敬の念を抱きました。また、ゴーンさんだから出来た日産再生を理解した。
長い記事をお読み頂き有難うございました。 imasan
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2017年3月3日金曜日

学校で経験したことが役立った「ある方法」とは          ・・・・・・   imasan

1.今回のテーマはどんなこと?
一般的に、学校で習ったことが、社会へ出で直ぐには役立たないと言われている。
私の経験したことであるが、大学の卒業研究の実験で使ったある方法が入社3年目で役立った例を紹介したいと思います。



2.卒業研究のテーマとその方法
私が所属した研究所の卒研のテーマは「ジェットポンプの研究」です。
そのテーマを選んだ理由は、ただ、ポンプメーカに入りたいとの希望があっただけのことでした。

思い出すのは、その卒業研究結果の発表の時、Watanabe君が説明を始めた最初の段階で、町田教授より発言がありました。「毎年、毎年同じテーマの研究で進歩がない。他のテーマを選んではどうか」と言う提言でした。
一瞬、何故この段階でと唖然としたが、それに怯まず、Watanabe君が発表を続けてくれました。


卒研を発表するWatanabe君
さて、この研究では、吸い込み口の口径、先端ノズルの形状と位置などパラメータが多く、全ての組み合わせで実験するには時間がかかります。
それで使ったある方法」とは、統計学の「直行配列表を使った実験計画法でした。
研究室の本棚に何冊かの本があるのに気付き、自然と使った記憶があります。


吸い込み口

サイズの違うノズル
3.学校で使ったことが役立ったこと
学校を卒業し会社に入社し、繊維機械の自動ワインダー製造部門の生産技術係に配属された。
その3年目の昭和40年4月、上司から中央研究所に「硫酸浴による硬質アルマイトの研究」を依頼しているが、目標の硬さが得られていないので、研究に加わるように言われた。
それが、出来ないとKaneboさんに自動ワインダーを買ってもらえないのだと言う説明だった。
その理由は、これまでアルミの鋳物に硬質Crメッキした綾振りドラムを使っていたが、メッキが溝底にはつかず、アルミ地と糸が擦れて染色に悪いという理由からでした。
一方、硬質アルマイト処理したドラムは、溝底まで均一にアルマイト層がつきます。

この研究の目的を聞いて、卒業研究で経験した実験計画法を使ってテストする事が最適と判断し提案した。
その理由は、「何が、硬度に影響を与える主因子かをいち早く見出せると思ったからである。
その後、上司と研究者の許可を得て、具体的に硬質アルマイト処理の4つの因子をあげて、それぞれ2水準の実験条件を決め、直行配列表を使った実験計画を立てた。


実際の実験計画
その実験を行い、データを分散分析した結果、硬度に大きな効果のある因子が電流密度であることを見出すことが出来た。
主要因が判明したので、他の条件との組み合わせ第2回目の実験をした結果、目標の硬さ
を得ることの出来る処理条件が見いだされた。

実験の解析結果
その結果、幸いにもKaneboさんから初めて自動ワインダーを受注することが出来た。
受注した最初の1台分は、1度に2個しか出来ない小さな実験装置でアルマイト加工した。


表面が黒い色が硬質アルマイト加工したドラムです
この経験から、諸条件を2個の処理からを26個分へのスケールアップ設計をすることで、設備が完成した。素人私が出来たのは、その方法が考え方の道筋をつけてくれたのだと思います。


ただ、残念ではあるが、アルマイトの設備が出来てから6年ほどで、繊維機械から撤退した。
以来、その後の趨勢が分からないままだった。



4.何故こんな話を今?
今年、町内会のゴルフクラブの新年会で隣に座った方から、何処の会社にお勤めか聞かれた。
会社の名前を答えると、御社からいろいろな部署のアルマイト処理をさせてもらい儲けさせてもらっていると言われた。
この「アルマイト」と言う言葉を聞いて、50年前の硬質アルマイトに関する様々なことが蘇ってきたからです。何か熱いものを感じました。それが今回のテーマです。



5.50年前の設備はどうなっているだろうか?
硬質アルマイト加工設備は、綾振りドラム製造専門メーカの要望でそこの建屋に設置した。
その工場がどうなっているのか気になって、恐る恐るメールを送ってみた。

すると下記の返信が届いた
本日は、私共の事を想い出して頂きまして、お便りを下さり、誠に 嬉しく 有難うございます。
お名前は、よく父から、“開発から、製品まで、○○さんのお陰で出来たんや”と、いつも感謝して、皆に話して聞かせておりましたので、記憶しております。
おかげさまで、今も、ワインダー用のドラムを造らせて頂いております。
設備・建屋とも古くはなっておりますが、今だ、機能は充分に発揮して、アルマイト処理を続けさせて頂いております

と懐かしい心温まる内容だった。返信の言葉に心が動いて、先月24日に大阪八尾にある工場を訪問し、硬質アルマイト処理工場内を見せて頂いた。(下の写真)

当初より少し大きくされた処理槽

担当の方の話で、今も当初と全く同じ条件で硬質アルマイト処理を週2回されているとのことだった。アルマイト加工された素晴らしい製品と工場の皆様と話が出来に感激した次第です。

現在は、アルマイト加工ドラムの時代から球状黒鉛鋳鉄にイオン窒化処理したドラムに変わってきているそうだ。
しかし、硬質硫酸アルマイト加工の条件は変わっていなく、国内の多くの所で行われている。



これ、偏に「実験計画法」のお陰、いや、「ジェットポンプの研究」のお陰である。何をどう使うかのアイデアがあれば、学んだことを生かせると思う。

2017年1月17日火曜日

趣味の木工作品

 新年にふさわしい書の作品がないので、代わりに小生の別の趣味の一端を紹介します。
父の遺品の大工道具一式を、兄弟の中で私が全部引き取り、趣味の木工作品造りに活用しています。これまでに造ったいくつかの作品を紹介します。これらの作品は今も実用に供して使っています。
①は我が家の庭にあった古木を使って、ドリルとノミで、根気よくくり貫いて、割れ目は同じ材料を接着して塞ぎ、見栄えをよくしました。
④ホームセンターで端材を購入し、ノミとカンナを使って加工したものを、木工ボンドで接着して仕上げました。表面は木の肌を生かして、地のままです。
②小型のテーブルがほしいというので、家具店を探したが適当のものがなく、既製品と端材を使って自作しました。今も使っています。
以上趣味の一端を紹介しました。


2017年1月1日日曜日

新年のご挨拶

 
 
 
私は非常にあたたかく風もなく静かな好天の中、新年を迎えました。目の前の相模灘も穏やかな表情を見せており早朝から小舟をやさしく浮かべている様に見えます。庭に出て見ると気にも留めなかった木瓜が咲いておりました。
               伊豆の片田舎に咲いた木瓜の花(2017-1-1早朝)
 
 
元旦の朝食の時いただいたお屠蘇が少しまわりすぎ、衝動的に読んだ句を3首掲載。
 
                  * 元旦の お節とりわけ 妻にだす
  
                  * 穏やかな 元旦の朝の 庭の木瓜
            
                  * 飲みすぎて 少し反省 お屠蘇かな
 
私はこのような状況で元旦を迎えましたが、皆さんはいかがでしたでしょうか?        
 
 
 
 


さて、ブログ 「ミナヨシ会の仲間たち」は昨年5月に開設され、新しい年を迎えて2年目になりました。準備段階のいきさつは別にして、開設してみると 5月 に2件であった投稿が 6月には15件、そして12月までの投稿の累計は実に45件を数え順調に推移しております。これも類い稀なるIT知識を駆使してのimasanのサポート、およびToyoshimaさんの強力な後押しのお蔭です。並々ならぬご苦労があったことは確かで、心から感謝する次第です。
 
最初はミナヨシ会員の現況報告の場くらいに考えておりました。しかし実際の投稿内容は確かな行動に裏付けされた地域社会へのボランテイアー活動、長年継続努力された高尚な趣味、その他優れた考察、などがブログで披露されたのです。机を並べた学友がこのような素晴らしい、有意義な時間を過ごされていることを誇りに思います。
 
昨年の桐生での同窓会の様子も投稿されております。写真を拝見すると旧交をあたため楽しそうです。しかし同窓会では限られた時間内で個人個人の詳細な活動や趣味など踏み込んだお話は聞けないし、また出来ないのではないでしょうか? その辺をブログは十分補完できるものと信じます。何時という時間制限もありませんし、記事の長さ制限もありません。 好きな時に好きなように記載すればよいのです。
 
半年の経験からブログ「ミナヨシ会の仲間たち」は非常に面白く、誰かの記事にコメントが別の人からあります。さらにコメントで活発な情報交換が行われ、あたかもそばで膝を突き合わせて話しているような錯覚になるから不思議です。このような交流が無理なく自然にできます。 肩に力が入りすぎ、どうかすると長々と書きたくなることもありますが、本当にごく簡単な記事で結構で、それからだんだんお互いに会話が始まります。
 
このブログはミナヨシ会員であれば誰でも投稿できる共同運営型、ミナヨシ会員への限定公開のブログです。現在のところ記事を自分で書く方は4名、原稿の形で寄稿される方が3名です。その他にブログを読んでくださるミナヨシ会員が何人かおられますが詳細は分かりません。希望としてミナヨシ会員の多くの方々にこのブログへ投稿をしていただきたいのです。それが無理ならば読者になっていただきたく切にお願いする次第です。
 
 
以上新年のご挨拶かたがた、普段感じていること及びお願いを書きました。 今後このブログがいつまでも末永く運営されることを願っております。       (石井)
 

2016年12月20日火曜日

富士山の景観など

今回の投稿は、「この一年を振り返って」、「富士山の景観」、「(来年への)新しいチャレンジ」です。

1.この一年を振り返って

今年は、5月の同窓会を契機に「ミナヨシ会」に新しい風」が吹き、今も続いています。それは、石井さんの発案でスタートした、ブログ「ミナヨシ会の仲間たち」です。石井さんとimasanのご尽力により5月に開設されました。私もこれに参加しました。私にとって未体験の「新しいチャレンジ」でした。私の投稿件数は、6月から10月までに11件になりました。初めは夢中で投稿していました。毎回のように初歩的なミスがありましたが、その都度、石井さんとimasanのサポートがあり、何とか乗り切ることができました。改めて、石井さんとimasanに感謝申し上げます。今後もサポートをよろしくお願いします。

石井さんからは、電話で「ブログが消えたよ」と連絡があり、投稿したばかりの記事が消えてしまったことがありました。早速再入力しましたが、「下書き削除」をしているうちに操作を間違えてしまったものです。最大の失敗でした。また、最近の安楽岡さんの英文のスピーチの記事には驚きました。imasanについては、ブログ「今さんの一日一言」を長年拝見していますが、ミナヨシ会のブログで、この道のエキスパートであることを改めて知り感心しました。

ブログの記事やコメントを通じて、学生時代の懐かしい思い出や皆さんの近況の一面を知ることができ有意義でした。私の記事は、3年ほど前から始めた、仏教の勉強、水彩画、気功などを取り上げましたが、10月で「ネタ切れ」となり、しばらくお休み、今回の投稿となりました。

2.富士山の景観

富士山は自宅から日常的によく見ていますが、最も美しいと思うのは、冬の冠雪した姿です。個人的に最もよい思っているスポットは、車で約20分の「日本平」(標高307mの丘陵地)の山頂付近から見る景観です。10日前から快晴の日を待っていましたが、先週の土曜日にその日が訪れました。早速車で撮影に行きました。その写真を掲載しましたので、ご覧になってください。

最近の市の広報誌によると、「富士山と調和する美しい駿河湾」、「日本一高い富士山(3776m)と日本一深い駿河湾(2500m)、ダイナミックな地形と景観」として、「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟したそうです。因みに、松島湾、富山湾はすでに加盟、最近、宮津湾、伊根湾(京都府)が加盟したそうです。

私事ですが、卒業後長年勤めていた工場がこの日本平の眼下(海側)にあり、また、地元のJリーグの「清水エスパルス」のホームスタジアムも日本平の眼下にあります。以前は、このスタジアムへ観戦に行きましたが(自宅から自転車と徒歩で25分ほど)、最近は専らテレビ観戦です。
なお、清水エスパルスは、ハラハラドキドキしましたが、一年で「J1復帰」を果たしました。


日本平の山頂付近から見た、富士山と駿河湾(清水港)


上の写真の富士山を拡大
日本平の山腹にはみかん畑や茶畑が沢山あります








3.新しいチャレンジ

最近のテレビなどの情報をもとに、来年から始めようとしている、「新しいチャレンジ」として、本を購入して準備を始めているところです。
それらは、「マインドフルネス(Mindfullness)」と「ウォーキング、特にノルディックウォーキング」です。

(1)マインドフルネス
マインドフルネスについては、2016.10.1に本ブログに投稿しました、「最近の情報」の<情報2>NHK  TV「ガッテン」の記事です。その後、書店でマインドフルネス関係の本を3冊(写真)を購入し、いずれも一読しました。「最高の休息法」(写真左)によれば、「アメリカではここ数年、マインドフルネスが爆発的に流行している」、また、マインドフルネスとは、「瞑想などを通じた脳の休息法の総称」とあります。「集中力アップ、記憶力アップ、免疫力アップ」、「毎日の疲れをリセットする科学的に正しい方法」などとあります。この「瞑想は、「意識して呼吸をすること」と言われています。

ヨガ、坐禅、瞑想などがアメリカの大学などで脳科学の面から研究され、実証も進んでいるようです。宗教色もなく、やり方はバラエティに富んでいるようです。
毎朝続けている坐禅(約20分)に似ていると思いますが、もう一度本をよく読んで、来年からは、寝る前に10分くらい「瞑想」を行ってみようと準備しています。 


購入したマインドフルネスの本

(2)ウォーキング
ウォーキングについても本(写真)を読んでいるところです。群馬県中之条町に住む65歳以上の全住民5000人を対象に、15年にわたり、身体活動と病気予防との関係について調査を実施した結果をまとめたものとあります。「普通の歩数/中強度の時間」で表現すると、一日8000歩/20分を続ければ、殆どの成人病の予防が可能とあります。まず、4000歩/5分から始め、2か月で2000歩づつ増やし、最終的に8000歩/20分にすればよいとあります。
私の数日のデータでは、一日3000歩くらいなので、もっと増やす必要があると思っています。

なお、運動を増やす方法として、二本のポールを使う、「ノルディックウォーキング」をしたいと思っています。ノルディックウォーキングの運動効果は、通常のウォーキングの2割増しと言われています。

これらの新しいチャレンジは果たしてどうなりますか?楽しみにしています。

”Just do it"(「行動あるのみ」)を時々思い出し進めたいと思っています。

最後になりましたが、皆さま 良いお年をお迎えください






















2016年12月15日木曜日

大学時代研究室の思い出



安楽岡さんが英語のスピーチで倉林先生の卒寿のお祝いを述べた記述が紹介され、関連の写真を送ったら、今川さんから始めてみる写真だというので、ぜひブログに投稿せよとの仰せ。
 写真を整理して自分史に載せたものの一部を紹介します。

これは熱力学研究室の恒例の行事なので、他の研究室の人達はあまり知らないと思います。
 熱研では3年生になると毎年上田の奥のお寺で「輪講会」が開かれた。右の写真は「輪講会」初日のパーティー風景。上の写真は輪読風景。(内容については安楽岡さんのスピーチを参照ください。
 輪講会を終えて翌日は氷室山を越えて、足尾へ抜ける登山である。下の写真は出発前の集合写真。 輪講中の食事は勿論、翌日の昼飯のおにぎりも自分たちで作る。
 写真と説明文の位置関係が思うように配置できないので、下の写真の説明をここでしておきます。写真右下:足尾への途中で小休止。写真左下:氷室山で自前のおにぎりを頬張る。      右下の写真:草木が生い茂る山道で「シイタケ」を発見。もう無いかなーと覗き見る倉林先生。
最下部の写真:登山の途中で全員でパチリ。
このブログでの写真の位置関係と説明文の位置関係を出すのに一苦労しました。どのように編集すればよいのでしょうか?今川さん教えてください。
  







2016年12月7日水曜日

あれは、平成24年2月吉日のことだった・・・   タッチ・アンド・ゴー    T.Imagawa

7.もやの中に何かが・・・見えますか?
説飛行機の中から撮った写真


それは、伊丹空港から飛び立って水平飛行になった時、最初に見えた富士山です。


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8.伊丹空港でタッチ・アンド・ゴー

24日、新大阪で6時20分の伊丹行空港バスを利用し、朝早い伊丹発7時30分発のJALに乗るべく、石山で姫路行き始発の電車5時3分に乗った。
初めてであるが、石山駅のプラットホームには、10数人が電車を待っていた。多くは、仕事で出かける様子だった。
新大阪に着き、足早に空港バス乗り場に急ぐ。既にチケット販売機の前には、5、6人の方が並んでいた。下の写真は、丁度券売機を係員が開いたところである。
このバスには、仕事に出かけるサラリーマン風の方々多数が乗り込んだ。
バスは25分か30分で伊丹空港に着く。短時間で空港までの所要時間がハッキリ読めるのが良い。6時50分に着いて、7時30分の出発までは40分ある。

左上はJR石山駅、下は空港バス券売機、右上はピッと端末機、下はタッチの方法
伊丹では、「タッチアンドゴー」というICカードだけの簡単手続きで乗れる利用方法が初めてだったので、早めの時間の空港バスを利用した。
インターネットで航空券を購予約した後、JALのホームページで自分の好きな座席を選択することでチケット購入が完了する。ただ、良い席の多くは既にに予約済みだった。
前日に、搭乗お知らせメールを受けるようにしておくと、「タッチ&ゴーにてご登場いただけます。当日は直接保安検査場へお越し下さい。なお、便出発15分前までに保安検査場を通過して下さい。」と文頭に書いたメールが来る。
写真右下がタッチしている例であるが、JALカード、JALマイレージのicカードや登録された携帯でもタッチで保安検査所に入り、搭乗口でもタッチし飛行機に搭乗出来る。

所謂、これまでのペーパーの搭乗券は不要なのだ。
また、手続きが不要なので出発時間15分前に保安検査所に入ったら良い。

ただ、初めてなので、何処に機械があるのかとまどった。
朝早いので、JALの係員もいないし、保安検査所入口前と思っていた「ピッと端末」は中にあり、荷物を検査する機械の直ぐ後ろに設置されていた。
写真下が機器の設置場所で、検査を通過してから中から撮った。従って、機器の向こう側が検査所の入口です。全部の検査所には置いていないので注意が必要。
それらしき物を検査場の入口外から見つけてホーットした次第です。
 

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9.伊丹から羽田まで
大阪から東京までは、京都から新幹線利用か伊丹から航空機利用かの二者択一である。
料金は新幹線と変わらないし、飛んでいる時間は35分ぐらいで、実飛行時間は短い。

それに富士山が見られることに引かれる。左側の窓際の席に限るが・・・。
伊丹から羽田へ飛行機で行く間、富士山が見えだしたら、羽田に着く直前まで見えている。

今回は、インターネットで席も窓際指定した。
翼が前が後ろが良いが、残っていたのは翼の所だった。

離陸後の暫くは空の上は曇り空、到着近くには空も青みがかってきた
24日は快晴だったが、上空はもやっとしていた。
従って、富士山がクッキリと見えなかったのは残念。

いつもは象徴的に雲の上に見て下さいと言わんばかりにニョキットキ出ている。
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10.航空機利用後日談
同じ年の9月に弟の嫁さんから今のうちに弟に会いに来て欲しい電話があり、阪急交通社の航空機利用1泊2日東京ホテル泊を全てインターネットで予約した。
ところが、前日から台風予想で悪天候になり、飛行機は台風で飛ぶか分からなかった。
それで、阪急に夜にメールで問い合わせた。12時前にメール返事が届いた。
<往路が欠航の場合>
航空会社にて案内される振り替え便のみご搭乗可能でございます。
なお、往路が欠航となり振り替え便のご案内がございません場合は、ご旅行代金名は全額返金させていただきます。
この後、少し寝てJALのホームページを何度もチェック、03時16分の発着案内で欠航と出た。
これをメールに張り付けて阪急交通社に送り全額返還となった。
また、JRの琵琶湖線も大津駅手前で線路の路肩が崩れ、夕方まで不通だった。
この様に、飛行機は悪天候には弱さがあります。
また、インターネット利用もキャンセルの手続きは大変である。
苦い経験です。ご参考まで。
面白くもない記事を読んで頂き感謝いたします。



2016年12月5日月曜日

あれは、平成24年2月吉日のことだった・・・    ミナヨシ会の案内来る     T.Imagawa

1.これは何でしょう?

桐生グランドホテル前で撮影

答えは、わたらせ鉄道相老駅に私を迎えに来たリムジンバスです。
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2.ミナヨシ会:桐生への小旅行を計画
あれは、平成24年2月吉日のことだった。ミナヨシ会開催の案内がメール添付で送られてきた。多分、Nojiri君からだった。
日時は、5月24日午後2時30分~5時、会場は、桐生グランドホテルだった。

直に、メールで参加の申し込みをした。

それからこの桐生行きの小旅行の計画を始めたのは、4月初旬だった。

4月12日にインターネットで、マイレージを使った特典航空券:JAL110便、大阪(伊丹)9時30分発ー東京(羽田)10時40分を予約した。

その時、出来れば、下記のことも同時と考えた。
1.主目的の桐生でのミナヨシ会に参加する。
2.ミナヨシ会参加の前に母校群馬大学工学部を訪ねる。
3.さいたま県所沢のハートセンターに入院中の弟を見舞う。
4.東京で小学校の同級生に会う。2人のうち1人は50年振り。


上記を1泊2日の間で効率的に実行するにはどのような行程と時間になるか詳細を検討した。
私の最寄り駅、JR石山駅から東京までは、JR新幹線か伊丹発の航空機が考えられた。
料金は同じくらいだけれど、JALのマイレージが使え、乗っている間中富士山の見える航空機を選んだ。
最初は、9時30分発だったが、母校訪問をミナヨシ会開始時間の前に入れたので、最終的に朝7時30分発の飛行機になった。
羽田空港から桐生駅までは、東武鉄道を利用する行程とJR線で高崎駅回りと小山駅回りを「駅から時刻表」、「ekitan」と「NAVITAIME」を使い幾通りも調べた。
その結果、羽田から京浜急行東武浅草駅まで乗り換えなしで1本で行ける東武鉄道を選んだ。
羽田では、何時の電車の何両目に乗って着いた浅草駅のホームをどう移動し、何番の地下出口から出て東武浅草駅までどう歩くか駅構内図や動画見て調べた。
乗り遅れない様、りょうもう号の特急券の券売機の使い方をホームページの写真で調べた。
りょうもう号の東武新桐生駅到着後、駅から群馬大学正門前まで何処行きのバスに乗るのか、また、乗るバスの時間表をプリントアウトし調べた。
群馬大学構内を参観後、群馬大学正門前からJR桐生駅までバスで行き、そこから少しの乗車時間ではあるが「わたらせ鉄道」でJR岩宿駅まで行くコースを選んだ。
JR岩宿駅からホテルまでは、ホテルにメールで送迎を依頼した。
ミナヨシ会の次の日は、弟が入院の所沢ハートセンターまで行かないといけないので、出来るだけさいたま県に近い宿をと旅の宿サイト「じゃらん」で調べ、新前橋のホテルを予約した。
ただ、JR新前橋駅から高崎経て西部所沢駅まで時間がかかるが東京まで行かないといけないかが難しい課題だった。
ところが、JR八高線のJR東飯能駅の構内図を調べた結果、
JR東飯能駅と西部東飯能駅と陸橋でつながっており、東京まで行かなくても良くなり難問題が解決した。
次の朝は、JR新前橋を朝1番の電車でJR新前橋出発し、八高線JR東飯能で乗り換え西部所沢で弟を見舞い、小学校の同級生に指定された待合場所、JR新宿駅南口に4時に着いた。
JRでの帰りは、時間の余裕を見て出来るだけエコにと7時28分発新幹線「ぷらっとこだま・エコノミプラン」のこだま号を選んだ。


最終的な行程は下記となった。
最寄りのJR石山駅→JR新大阪駅ー空港バス→伊丹空港ーJAL→羽田空港ー京浜急行→浅草→東武浅草ーりょうもう号→新桐生ーおりひめバス→群馬大学小門前ー群馬大学構内散策ー群馬大学小門前→JR桐生駅ーわたらせ渓谷鉄道→相老駅ーリムジンバス→桐生グランドホテル・ミナヨシ会ーリムジンバス→JR岩屋駅→JR新前橋ーホテル泊
新前橋→JR高崎駅ー八高線→JR東飯能ー西部飯能→西部所沢ー所沢ハートセンターー西武所沢→西武池袋ーJR池袋→JR新宿駅ー同級生と再会
ーJR新宿駅→JR東京駅ー新幹線こだま号→JR京都駅ーJR琵琶湖線→JR石山駅
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 3.ホテルについて会ったミナヨシ会の仲間たち
リムジンバスから降りて、到着したホテルのドアを開けて中に入り、大嶋様と歓談した後に、椅子に座って待っておられる皆様方に話しかけながら写真を撮っていった。
前もってNojiri様に名札をとお願いして付けてもらっていたので、直ぐに名前とお顔を確認出来た。


ミナヨシ会の皆様その1


ミナヨシ会の皆様その2


ミナヨシ会の皆様その3


ミナヨシ会の皆様その4


ミナヨシ会の皆様その5
皆様の写真はこれだけで、この後のミナヨシ会パーティでの皆様のスピーシをビデオカメラに撮ったのですが、家のノートパソコンに保存した後、パソコンのハードディスクが壊れて、残念ですがお見せ出来なくなりました。この時のミナヨシ会での皆様の1人づつのスピーチは、お勤めをされてきた会社での実り多い興味あるお話が殆どでした。
私は、定年後の話だけだったので、次は、私もと思ってネタを用意して26年の伊東でのミナヨシ会に出席しましたが、皆様、会社の話は全くされませんでした。
結局、私のネタも紹介せず仕舞いでした。
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4.東京から新桐生へ、バスで群馬大学工学部へ
JAL104で伊丹を7時30分に出発すると、羽田に8時35分に着く。羽田から東武鉄道に乗る乗換案内時間をNAVITIMEで調べると、京浜急行で都営浅草駅に9時31分に着く。
ここから9時40分発の東武鉄道の特急りょうもう7号に乗るように選択されて出てくる。
都営浅草駅の地下出口から階段を上がって地上に出て、東武鉄道のある松屋デパートまで9分で歩かなくてはならない。NAVITIMEでは、電車の前方車両に乗るようになっている。
果たして9分で乗れるのか、可能か、インターネットで色々調べた。
読むと道筋がかなり複雑のように書かれている。子供連れの方には、浅草に着く前に押上駅で銀座線に乗り換えると階段が無く容易で、浅草駅についても銀座線は降りて前方に進むだけで東武浅草駅に着くと書いてある。でも乗り換えたら間に合わない。

また、特急券を自動機でどう買うのかも東武のHPの写真見ながら直ぐ出来るように憶える必要がある。実際はどうだったかであるが、3分ほどでチケットを買わないといけない状態だった。
ただ、新桐生に到着しても、バスを30分待たねばならず、次のりょうもう9号を選択した。
また、特急券は、何時調べても空きがあった。

今回は、調べた時間通りで全て順調にいった。


浅草から東武鉄道の新桐生行きのりょうもう号に乗り、電車はスタートした。
暫くして、窓から東京スカイツリーが見えるとアナウンスがあった。
そうだ、この電車は、東京スカイツリーを通過するのだ。

先月15日に、この東京スカイツリーまで浅草から歩いてきた。
不思議なことに、1ヶ月後に同じ所を電車の窓から見ることになった。

駅を通過する前は左手に、通過した後は右手に東京スカイツリーが見えた。
15分ほど経過してから2分ほど遅れているとのアナウンスがった。
車掌が近くを通ったので、再度聞くと、2駅ほどでか、駆け込み乗車があり5分遅れているという。
遅れたらバスに間に合わないので、遅れないようにスピードを上げて欲しいと言った。
すると、スピードは決められた速度があり、上げられないと言う。
それでは困ると言っておいた。
新桐生近くに来ると、ダイヤは遅れを取り戻し、正常な時間になっていた。

車掌にこのようなことを言ったりする自分は、関西人になったと思った。
館林を過ぎた辺りだろうか、金色に輝く畑が見えた。麦畑と思う。
東部浅草駅から新桐生でおりひめバスに乗り群大へ
桐生市ホームページを調べたら「おりひめバス 路線図と時刻表」が出てきた。
おりひめバス 時刻表とりょうもう号の到着時間をにらめっこしたら、東武鉄道の特急りょうもう9号が新桐生に着いて7分後に新桐生駅を出発するバスがあることが分かった。丁度良い。
地方都市ではどこでもあるように東武バスから市が運営するおりひめバスバスに変わっていた。
でも、電車が遅れたら代替えとしてタクシーを利用するしかない。
幸いにも遅れていた電車は、車掌か運転手が気張ったのか?幸い定刻に到着した。

改札で、駅員にバスは何処かと尋ねると、右手奥に停まっているという。
急いでバスまで行くと運転手が、まだ時間があるので、向こうの乗り場でお待ち下さいと言う。もう、大丈夫、全てが予定通りに行った。

多くの人の乗り降りがある。バスは年輩の方々の無くてはならない良き足だと分かる。
歌に出てくる渡良瀬川を渡って、JR桐生駅前を回って、昔歩いた市内を通るが、50年前の面影はない。
変わって当たり前、時間経過は昔を偲ばせない。

バスは、学校の門前に着いた。
帰りのバスを確かめて、母校の門を入る。
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5.群馬大学工学部構内散策

期待に胸膨らませて正門を入る。
左側が移し替えられた建物、右側が現在の校舎と一番下が現在の寮
左側写真1番上が、母校の現在の門。写真2番目が、現在の門を入って直ぐ右に移し替えられた以前の門、と講堂。


昔の建物を移し替えずにそのままに何故しておかなかったのだろう。
今はない池のあった面影の大きな部分が、「国登録有形文化財」として、隅っこに追いやられている感じで、50年近く経て全てが変わったと現在の門を入って直ぐに感じた。

サッカー部に入っていつも練習をしていたグランドも駐車場に変わっていた。
古い木造の学生寮の建家もなくなり、校舎が建てられ、離れたところに立て替えられていた。

思い出に耽る場所は、先の講堂ぐらいだろう。
全てが、新しい場所になり、長居をせずにこの場を後にした。

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6.おりひめバスでJR桐生駅へ、わたらせ鉄道に乗り相老駅へ
同窓会は、東武鉄道の相老駅から徒歩5分、JR岩宿駅から車で10分、相老駅、岩宿駅でバス出迎えと同窓会の案内状に書いてある。

桐生駅窓口で、両駅にどう行くか聞くと、わたらせ鉄道では相老駅、JR両毛線では岩宿駅へ行くとの答えだった。
桐生グランドホテルへはどちらが近いかと聞いたら、暫く調べていたが諦めて、交番で聞いてくれと言う。全く愛想がない。
駅から近く、時間的にも早い渡瀬渓谷を走る列車、わたらせ鉄道を選んだ。
 
左一番上が桐生駅構内、乗ってきた電車と迎えのリムジンバス

桐生駅構内は、列車を待つ高校生で一杯だった。長く待っていたからか今も思い出す。
ローカル線は、学生と車のないお年寄りには欠かせない大事な乗り物なのだ。

わたらせ鉄道は、元々、足尾銅山へ行く足尾鉄道であった。それが国有化されたが、昭和63年1月に、JRからわたらせ渓谷鐵道株式会社になった。トロッコ列車も走っている。

列車の出発前に電車内からホテルに電話をし、相老駅でのピックアップを頼んだ。
桐生から2つ目の相老駅に着いて、駅前で待っていると、写真のような大きなバスで迎えに来たのにはビックリした。
乗ったのは、私だけだった。

電話をしないでも迎えに来ると岩宿駅で思っていた仲間の1は、全く来ないので、タクシーで来たと言っていた。
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話は長く続きますが、皆様が興味を示されるかどうかどこまで書くか、今日はここまでとします。